グーゴル検証、ニーチェとかラッセル色々
aristotles200
10の100乗の世界がある
実在する、宇宙137億年が消し飛ぶような、漢数
8字は表す単位すらない
これを尊ぶのか、数字の印象操作で終わらすのか
わからない
人間の考えれることは、いつか実在する、こういう世界に生きてきた
地球で生まれた生物の原子の総数ではどうか、10の100乗比べてもお話にもならない
ようやく神の存在に気づけたのかも知れない
しかし10の100乗は、意志を持たない、理論上の数値であり、所詮、数である
そもそも、10持てる人よりも1000持てる人のほうが尊い、その逆転はあるがそういうものではないか、ラッセルの数字的宇宙観の限界、ニーチェの善悪の彼岸がここにある
一方で、神と均しい、絶対的な数、0とは
善悪に対抗する存在でもある
数の多さとは表示、善悪の現象でしかない
10の100乗とは、逆説的に0の偉大さ述べている
無こそ、永遠の有を生じる源泉
最初に0があり、そして1が生まれた。
この過程に世界の根本存在、神を見る
論理的に、斯くあるべきである
人間とは数値ではない、考える生き物である
何を考えた行ったのかが、その人の価値を自ら決める
例えば、一生を、呑む打つ買うに捧げた人
そして一生を、小林一茶の研究に捧げた人がいる
どうしたことか
倫理、道徳的以外、たいした違いはない
人間とは、何と不可思議な存在なのか
しかし、明らかな違いある
この二元論からの脱却の好例こそ、0に対する10の100乗に他ならない
ここに、実存主義の到達点、主観的世界の一元論を垣間見る
私たちは、新しい世界を構築せねばならない
0=神、10の100乗=善悪
どちらでもない、数の拘束なき、超人の世界を