読み聞かせ、ではなく……
大町綾音
自分の文学的な原体験とは何だろう? ということは何度か考えたことがある。しかし、その答えは不思議と出なかったし、そもそもそういうことを私はほとんど意識してこなかった。
その原因は、たぶん小林秀雄にある。小林は、次のような趣旨のことを言っている。
「自分は必要に迫られて生活のために文学を始めた。それ以外の理由はない」と。
この時代に、私自身は売れる作家になろうとかそういうことを考えたことはほとんどなくて、自由主義のこの国にあっては、そのことのほうがむしろ不遜なのだけれど、昔から、賞レースとか読者投稿というものにはどうしてもなじめない「私」という人間がいて。
私がしてきたのは、すべてを小林秀雄の逆で行こうということだった。
「自分は手当たり次第に読書をしてきたが、読書の仕方としては、誰か一人の全集を読み込むといった読み方でも良いのではないか」(要旨)と書いているのを目にして、「なら、私は全集を読もう」と思ったり、「自分は立派な作品を書こうと思ったことは一度もない。常に売れる作品を書こうと思ってきた」という菊池寛の言葉に賛意を示しているのを読んで、「なら、私は趣味でも良いから立派な作品を書こう」と思ったり。
多分、小林秀雄が書いていた通りに実践しているのは、批評を書くときには自分を棚に上げなければならない、ということくらいではないかな、と思う。(以上、引用は正確なものではない、ちなみに)
なんだろう、きっと自分にしっくり来るように振る舞ったらどうなるか、ということを考えた結果、単純にすべてが小林秀雄の逆になった、ということなのだけれど、小林のような天才でも秀才でもない私にとっては、多分それがちょうど良かった。
最初の読書体験は、童話である。子供のころ、私の記憶では7、8歳のころだったが、母に勧められて椋鳩十の動物ものの童話を読んでいた。これは何冊も読んだ。戸川幸夫は好きではなかった。ジャック・ロンドンなんて、かすりもしなかった。もちろん、自慢でもなんでもない。
そもそも、仮にも作家を目指した人間として、私は読書量が少なすぎるだろうと思う。
では、何を読んだのか? 例えば、落語の本を読んだ。これはかなり夢中になって、父にも勧めた。それから、スヌーピーの漫画雑誌を読んだ。これも夢中になって(次兄のほうの)兄に勧めた。中学生のころには、吉川英治の「三国志」と井上靖の「しろばんば」(後の2冊の続編を含む)を読んだ。──これが、私にとっては珍しい子供時代の読書体験である。
なら、私はそれ以外には何も読んでいなかったのか? テレビばかり観ていたのか? ……実はそうでもない。
実のところ、私の子供時代から、(長兄のほうの)私の兄はプログラマーで(現在はAIの研究者である)、ずっとパソコン雑誌を買ってゲームを作るなどしていた。
私は、それ(パソコン雑誌)を読んでいた。当時の兄の趣味は、市販のゲームソフトのプロテクト破りをすることで、要するに彼は当時からハッカーどころかクラッカーだったわけである。
私見としては、ソフトウェアの逆アセンブルや逆コンパイルを禁じるような、コンピューター業界の現状なんて、社会にとっては毒でしかないように思う。社会を作るのも、社会を育てるのもハッカーである。それが、ささやかな私の持論。
そんなこんなで、私は作家の感性なんて全く持っていないし、だからこそ努力しても全く芽は出なかった。たぶん、今後とも芽が出ることはないだろうと思う。
顔文字を使いたくないので、ここで文面で苦笑しておく……いや、顔文字ですらなかったか。あの、「(笑)──カッコワライ」という表現の正式な名称、いったい何と言うのだろう!
子供のころには、余計なことになら夢中になった。
「フラッシュダンス」と「フットルース」に夢中になった。これは、地元のテレビ局が週末にポップス・ベストテンを放送していたから……。
それから、「ゴジラ」にも夢中になった。今どきなら、「シン・ゴジラ」のファンだと言えば、一と角の文化人として通用するかもしれない。
当然ながら、ゲームにも夢中になった(繰り返すが、私の兄は今現在もクラッカーである)。「ちゃっくんぽっぷ」とか「フェアリーランド・ストーリー」とか「バブル・ボブル」といったタイトーの奇妙なゲームを知っている人はいるだろうか。
ライトノベルにも夢中になった。……小林秀雄に夢中になると同時に、渡邉由自の「魔聖界ロード」を読んでいた。今でも、「本好きの下剋上」なんかが村上春樹よりも好きである。
こんなふうで、私は作家として成功しないための不適格要素は山ほど抱えている。
しかし、そんな私でも後の文学活動につながった原体験が一つだけある。
幼いころ、寝る前に父が物語を読み聞かせてくれていたのである。(思えば、私はそのころから「父の娘」だったわけなんだが、「父の娘」についてはここでは説明しない。もししてしまったら、家族や親戚や父自身の手前、多分恥ずかしくて死にたくなる。……知りたい人は、勝手に少女マンガでも読んで学んでほしい)
なんだが、ここでも嘘をついた。正確には、それは読み聞かせではなく、話し聞かせである。父が、父自身が眠る前に読んだ本の内容を、私が眠る前に語り聞かせてくれるのである。そう、まるでシェヘラザードみたいだ。
だから、「家族版千夜一夜」とでも、言っておけば良かったのかもしれない。
一体どんな話を、父は私に話し聞かせてくれていたのか?
私が覚えているのは、ハーマン・メルヴィル、モーリス・ルブラン、エトセトラ、エトセトラ。
それも、一日で終わる「要約」ではない。何日も、それこそ何週間も続くのである。……私が眠くなると、父は、
「今日はここまでな?」
とか、
「今日はここまでにすっか?」
とか言って、私は眠りにつく。
多分、私はそれで「物語」が好きになった。「文学」が好きになったのではない。単に夢見がちな人間になったのだろう……もし、私のほうに少しでもそれを生活につなげようとする甲斐性があったら、と思うと、その後の私が父に対して反抗的になったことも含めて、重ねがさね申し訳ない。
自分の文学的原体験について語ることには、やはり私は失敗したような気がする。私は、あくまでも父とのそんな一時を経験することによって安心して眠りたかったのであって、文学のもたらす「精神的な自立」という作用を経験することはなかったのだから……
つまり、だから未だに私は、努力して小説の筋書きなんかを考えようとすると、とたんに眠くなって、そのまま落ちてしまったりするのかもしれない。
ただ、父のする「物語」の話し聞かせ、それがとてもスリリングなものだったことは、疑いもない……。
この文書は以下の文書グループに登録されています。
ライフ・イズ・リテラチャー