雨の日
由比良 倖
喫煙所を兼ねた休憩所には灰皿が二つ置かれているのに、地面には吸い殻が散らばっていた。大分前から管理されてないらしく、灰皿は吸い殻でいっぱいになっていた。そこは展望台のようになっていて、天井がなく、見るべきものと言えば空くらいなのに、今は細かい雨が降っていて、暗い空と、あとはどこまでも続く杉林に、添え物程度の海が見えた。透子と僕の他には、十三歳くらいの少年がいて、足や手を落ち着きなく動かしながら、休憩所の隅のベンチで一心に空を眺めているようにも見えたし、ただ何もかもから目を逸らしているようにも見えた。透子も僕も、誘われるようにして、煙草も吸わずに、空を見ていたけれど、僕には面白いものなんて何もあるようには見えなかった。帰ろうか、と透子を見ると、どういう訳か彼女は泣いていた。或いはただ涙を流していた。
僕が、「どうかしたの?」という顔で彼女を見ていると、透子は、
「雨」
と答えた。
それから何かを誤魔化すみたいに急いで少し笑って、
「見て、ねえ、雨。今日は風がなくて、あの黒い雲から、一直線にここに雨が落ちてくるの。高い、高い、高い、高いところから。一万メートルくらいの高さから、ここへ。一直線にね。望むなら、いつまでも、雨を浴びていられる、雨を、私が雨を呼ぶなら、いつまでも、いつまでも、雨は降り続ける」
そう言って、「私はとてもすごいと思うけど、あなたには分からないかもしれない」という顔で僕を凝視するので、僕は懸命に「とても、すごいと思う」と言う顔をしようと努力した。
隅のベンチで、僕たちには無関心そうに足を組み替えたり、靴底を地面に擦り付けたりしていた少年が、ふと動きを止めて、振り向いて、
「雨、もっと降るといいですね」
と言って、透子に向かって笑った。彼はもうそろそろ変声期に近づいている少年特有の、ざらついてはいるけれど、よく通る声をしていた。透子は何も言わずに、嬉しそうに二回頷いた。少年は、僕と透子の間に割り込んで、自分の話を続けても構わないか、確かめるように、短すぎず、長すぎない時間、沈黙を保ったあと、僕たちから無言の了承を得たと感じたのか(実際に僕が「続けていいよ」と無言で示した微かな雰囲気が、彼にはあからさまなものとして伝わったという感覚を、僕は感じた)僕と透子の二人に向かって、先ほどよりも安心したような声で、
「僕は雨の日が好きです。雨の音も。雨のにおいも。くだらないことも嫌なことも、綺麗なものも素晴らしいものも、みんな水に包まれます。今日は時間のない雨の日です。僕は雨の日のたびに、降り止まなければいい、と思います。そうして何日も、何十日も雨は降り続き、この近くでは、人間が決めた基準の一切が水没するんです。その内に」
僕は、何のことか分からなかったけれど、透子は、
「そうなるといいね。その内に」
と言った。
少年は透子の同意に勢いづいたのか、立ち上がって僕たちのもとへ早足で歩いてきたので、僕たちは三人で三角形に立って話すことになった。と言っても話しているのは、殆ど少年ひとりで、彼は僕や透子や、まるでそこににいない誰かに身を乗り出したりさえして、多分に妄想的な終末論を熱っぽく語り、僕たちはただ話の途切れ間に、相づちを打つだけだった。少年の話しぶりは、彼の孤独な頭でごちゃまぜになっていることが、論理と妄想と思い込みの区別なく、多感な頭からそのまま飛び出して来るみたいだった。
「もう、すぐですよ。基準なんて決めるから、基準が絶対になるんです。人間が自然界に対して行ってきたことは、何もかも(いや、「殆どは」と言い換えます)、宇宙から微生物にまで、ただ物差しを当ててきただけです。世界に雨が降り続けて、昼も夜も無くなれば、時間は意味を成さなくなりますし、水没した世界の中で、暗闇の中で、人間にはよすががなくなるでしょう。暗闇は光を理解しないし、光には長さがありません。目を瞑らなくてはなりません。目の奥に光を見なければならないんです。その内……ここは、この世界は全て、水の底に沈みます。僕たちの殆どは、滅びるでしょう。滅んだ世界で、少ないひと達が、ただその日(「その日」なんてものがあればですが)生きることを生きるでしょう。そこにはまた喜びも、悲しみもあって……」
彼は突然悲しそうに顔を伏せて、急に僕たちの存在も忘れてしまったみたいに、微動だにせず立ちすくんでいたけれど、やがて、下を向いたまま、陰鬱な口調で、
「……そこにも、また、雨が降るでしょう。いつまでも、いつまでも。この、ここの、今と同じ雨が。いつまでも、降り続けるでしょう。だから、僕は、雨が好きなんです」
僕はまっすぐ頭上を見上げた。雨は宇宙の彼方から、僕の眼球へと一直線に落ちてきた。雨は僕の目に染み、眼球の裏側にまで染み渡り、そこで赤い、青い、虹色の光の溜まりを作った。
透子の巻いていたストールがほどけかかり、雨の色に滲んで、彼女自身がまるで、雨の一部になってしまったかのようだった。そのまま空に浮かび上がりそうな微笑みを浮かべて、透子は自然な体勢で斜め上を見上げ、全身に雨を受けていた。
雨足は、もう大降りと言ってもいいくらいに強くなっていた。このままあと一日も雨が続けば、本当に地上は、遠くに見える海の彼方までも水没してしまうんじゃないか、と思えるくらいに。一年でも、二年でも降り続けばいい、高い、高い、高い、高いところから。一万メートルと言わず、無限の遠い高さから、一直線に、僕のもとへ、僕たちのもとへ、降り注げばいい。全てを水の底へ、時間の無い世界へ、昼も夜も無い世界へ、僕を、僕たちを誘ってくれればいい。