あの夜の何処かで
ホロウ・シカエルボク
荒れた路面に転がったサイダーの空瓶、ほんの少し欠けた飲み口に残された血が、自分のものだと錯覚した理由は、きっと…潰れたペットショップの前で辛気臭い夜が更けていくのを見ていた、コーネル・ウールリッチの小説の始まりの様な夜だった、そして困ったことにまだ俺は誰も殺してはいなかった、物語は始まらない、どれだけ待っても…パンを膨らませる部屋みたいな湿気が辺りに充満していた、今にも雨が降り出しそうなのに空はずっと耐え続けていた、何をそんなに意地になっているんだろう、と問いただそうかと考えたけれど、それは結果的に俺に返って来るだろうと思って、辞めにした、何かが…タイトルだけが思い出せない曲の様に頭の中で何かが蠢き続けていた、それが自分にとって心地いものなのか不快なものなのかすら判別出来ないほどの細やかな蠢きだった、でもそれは確実にそこにあった、確実に俺の脳内に根を張っていた、もう少し育てば何かしらの言葉か映像になるだろうか…そういった状況にはもう何年も前から慣れていた、自分の身体だからといってすべてがコントロール出来るわけじゃない、それを理解していなければ、人間は万物の王だなんて、数十年も前には定説だった思考に陥るのが、オチだ、スポーツドリンクを飲んでいた、他に飲むものが思いつかなかったからだ、時々そういう日がある、甘味も苦味も酸味も欲しくない、そんな日、そんな日はスポーツドリングを飲む、少なくとも身体が渇いて死ぬことはない…どこか、視界に入らない道で女が騒いでいた、一人で騒いでいるのか、それとも男にでも癇癪をぶつけているのか…尋常じゃない剣幕だった、女一人の声しか聞こえて来ないので状況がわからなかった、酒ならいいけれどドラッグかもしれない、近頃はこの街にもいろいろ出回っているらしい、外国人が頻繁に出入りすることと関係があるのかどうかまではわからない、なんとも言えない、だってそれは、別に外国人が出入りしなくても当り前に存在しているものだからだ、選挙に行けばそういう事態は防ぐことが出来る、とニュースキャスターは言っていた、へえ、数十年前から選挙は行われているけれど、街にはろくでなしが溢れるばかりだっていうのにね…政治に国を変えることは出来ない、スローガンや税率が変わるだけのことさ、そんなものにのめり込んでいい気分になってるやつらのことなんか俺には理解出来ない、今日最後の路面電車が乗り場に止まり、誰も乗って来ないことを確かめて寂し気に去って行った、もう少し駅を増やさなければ乗車率が上がることはないだろう…繁華街に買物に行く年寄に有難がられるのが関の山、それ以上何を生み出すことも無い…いつだったか、二十代の始めだったか、好き勝手に遊んでいた頃に、路面電車の軌道を歩いて終点まで行ったことがある、不思議なくらい車が通らない夜だった、平日だったからかもしれない、酔っていて、かなりご機嫌だった、あまり酒に強くは無いから、余程運が良かった夜のことなのだろう、お巡りも今ほど煩い時代じゃなかった、そもそもそんなところをずっと歩いているのに誰に通報されることも無かった、どうしてなのかはもう誰にもわからない、歩き続けている間何か、ややこしいことを考えていた、あまり大っぴらに話したいような内容ではなかった、二十代の頃に考えてることなんてだいたいそんなものだ、夏の夜だったけれどよく冷えていた、一時間程度で酔いが冷めたことをよく覚えている、終点に着いたのはそれからすぐのことだった、線路の終わり、それは何故かその時の俺を酷く苛立たせた、俺は唾を吐いてすぐ近くの港に向かった、今はもうその港は客船を受け入れてはいないけれど、当時はまだ何本かのフェリーが客を乗せては去って行った、その夜は一隻の特級フェリーが係留していた、客室とロビーのある階から眩しい照明が漏れていた、船の向こうには稼働し続けている小さな工業地帯があった、ベルトコンベアーや、おそらくは石炭か何かを選り分けているような音、そうだ、セメント工場もあった、そっちは夜は動いていなかった、その道をずっと行くと、堤防沿いの小さな街があって…今ではその街は無人になってしまった、健康センターを除けばゴーストタウンだ、そうだ、あの夜俺はどこにも存在していなかった、生身のゴーストの様なものだった、港の職員に声をかけられるまで、俺はそこからの景色を眺めていた、ただただ俺では無いものたちが生き続けていて、動き続けていた、あの夜はきっと俺の中に棲みついて、未だに出て行こうとしない、こんな夜には昨日のことのように浮かび上がって、現在を曖昧にさせる、時間の経過をものともしない感覚というものが必ずある、もしかしたら俺を生かし続けているのは、そしていずれ死へと追いやるのは、そういった記憶の蓄積なのかもしれない、その時俺の魂はあの夜の中で浮遊するのだろうか、その時俺はその夜の風を感じることが出来るだろうか、あの夜の中にはなにも無かった、でも何故だろう、俺はそんな夜のことをもしかしたら愛おしいと感じているのかもしれないなんて思うことがあるんだ。