肉体と精神を失った日本人
室町 礼
がっくりすることがあった。
あまり期待もしてはいなかったが、ひょっとすると、
ひょっとするかもと注目していた若手文芸批評家の
浜崎洋介がよりによって村上春樹推しハウツー本の
宣伝と紹介をやっていた。
推薦しているのは『読めない人のための村上春樹入
門』(仁平千春子 NHK出版)といいう本。
浜崎は春樹ファンのこの女性を
ベタ褒めである。
村上春樹を「読めない」人と「読める」人に区分け
して色々いってくる方が村上春樹ファンの批評家に
多いのだが、こういう人たちって精神的な病気じゃ
ないのかな。
「難解な村上ワールドが読み解け、村上春樹が
わかるようになる! !」というフレーズが飛び交い、
村上がわからなかったら文学がわからないみたいな
ことまで言い出す批評家や思想家が多いのだけど、
余計なお世話だ。
あなた、山手樹一郎を読めますかな。
コップ一杯の水を一口、二口飲むことはできても、
全部飲み干して
その後も何杯も飲むことができるだろうか。
ビールなら出来るが水はむつかしい。
山手樹一郎の小説を読むということはそういうこと
だ。水を延々と飲む。それほどきついはなしだ。
生涯800冊の時代小説を書いているがストーリー
や登場人物などみな同じ、わくわく感ゼロ、思想性
ゼロ、物語性ゼロ、水を飲むように何も無い物語が
小川のように流れていく。
思想家で詩人の吉本隆明はヒマなときはいつも山手
樹一郎を読んでいたという。息をつめて深い水の底
に潜っていくような理詰めの思考を続けていると、
人は、ヘタをするとそこから浮かび上がってこれな
いときもある。
そんなときに山手樹一郎の着流し浪人小説が気休め
や気分転換になったのだろう。
しかしこんなものを我々がづっと読めるか?
村上春樹ってのは令和の山手樹一郎なんだよ。ある
いは令和の宇能鴻一郎といってもいい。
宇能鴻一郎てのは官能小説家だが、これがもう全部
一緒。同じような男女が同じような出会いをして同
じようなセックスをする。それが延々と続く。生涯
446作品、月平均して400字詰原稿用紙を1000枚
書いたという
売れっ子作家だった。
その官能小説の中味がどれもこれも同じ。こんなも
のわれわれが読めといわれたら拷問と一緒だよ。
でも山手樹一郎も宇能鴻一郎もずいぶん一般庶民に
は読まれた。人気があった。
「あなた大きいわねえ。もう、いくわよ」「うっふ
~ん」
こんなものでコーフンできる庶民大衆の頭の中って
いったいどうなってるんだ! 理解不能。
道路標識をみて
コーフンできるようなものだ。
でもだよ、山手や宇野をうんざりして読まない人に
向かって「読めないのはバカだからだ」みたいな上
から目線でいわれたら、あほかとしか言いようがな
いでしょ。村上春樹もそれと同じ。
まともな外れもの、アウトロー、つまり文学青年が
そんな大衆小説を読むわけがない。
では大衆は、わたしたちのような文学オタク、言語
フェチ、物語フリークにはとても読めないワンパタ
のそれら量産小説をなぜ読めるのか。退屈もせず、
コーフンできたか?
それは日本人のみならず世界的に戦後インテリが
〈肉体〉と〈精神〉を失くしたからです。
だから村上春樹の文体は幽霊のように足が地につか
ず、ことばは春の霞のように浮遊する。山手、宇野
ら大衆小説家の更新された新版です。よって大衆化
したインテリもどきに受けるのです。でもわたした
ちが山手樹一郎や宇能鴻一郎をとてもとても読めな
いように、まともな感性をした外れ者の文学青年に
あんな気色の悪い
ワンパタの大衆小説が読めるわけがありません。