それは、垂直に切断されているのか、しているのか?/『〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖』と『五行歌、ふく...
大町綾音
「それは、垂直に切断されているのか、しているのか?/『〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖』と『五行歌、ふくインさん』を比較する」
人は守られている時、いない時、世界というものに対してどう接していくものなのか。
このひだかたけしという詩人が意識的な人間であることは疑いがないのだが、これまでそのことは過度に見過ごされてきているように思われる。というのは、氏はあくまでも「意識人」なのであって、「意識家」ではないのである。このように見誤られるのは、以前の氏が自身を語るにあまりにも雄弁ではなかったからである。
今は事情が違うのかと言えば、そうとは限らないだろう。論を進めるにあたって、まずはタイトルに挙げた2編の詩を引用したい。
「〈根源悪〉の原体験/異邦の恐怖(改訂8)」
薄暗い
漠然と広がった
空間のなか
台形の
ノッペリとした
大人の背丈半分程の
鉛色の工作機械が
等間隔で何台も
一列に並べられている
大きな金属音があちこちから
互いに呼応するよう
規則的に響き渡る
人影は全く見当たらない
三歳の私は
並んだ工作機械の一番奥隅で
両耳を手の平で強く塞ぎ
背をできる限り丸め
うずくまっている
私は
自分の存在が
ナニカに気付かれてしまうこと
そのことにただひたすら怯えている
と
いつのまにか工員が一人
機械工場の入口に立っている
工員は
灰色の作業服姿に
つばの付いた
灰色の四角い作業帽を被り
背が高くマッチ棒のように痩身だ
私はうずくまり目をきつく瞑っているのに
彼の姿やその思念がつぶさに分かってしまう
彼の注意は
最初からジブンに向けられている
彼は私の存在に気付かないふりをして
刻一刻と私に向かって近付いて来る
逃げなければ逃げなければ!
私は恐怖に大声をあげそうになるのを必死に堪えながら
立ち上がろうとする
が
そこから動くことは決してできない
ふと一斉に
響き渡っていた金属音が止む
私は思わず顔を上げる
〈彼〉が工作機械の上から私を見下ろしている
〈彼〉のつばの付いた灰色の工員帽が見える
ガ
工員帽の影になった 〈彼〉の顔ハ
夜の砂漠のように茫漠たる闇で
その奥からギチギチギチギチと
執拗に歯軋りを繰り返すような
異様な擦過音が響き続ける
*
「わっ!」と叫び私は目覚め
ベッドから上半身を起こし
荒い呼吸を繰り返しながら
思わず後ろ手を付く
ト
眼前の
灰色の漆喰壁
襖張りの白い引き戸
ガ
豆電球の仄か黄色い明るみの中
浮き上がるようにして 在る
日常当たり前にあったものが
今や剥き出し露骨な匿名性として
冷たい無機質な虚無の塊として
そこに在る
私が呆然として
その光景を
凝視していると
次第に
ソレラガ ウゴメキハジメル
)辺りにいつのまにか響いている
)ヴゥーという低いモーター音と共に
ト唐突
ソレラが
無数のザワメキとナッテ
一斉に立ち上がり
一気に私の中に
雪崩を打って
侵入して来る
このままではじぶんがじぶんでなくなってしまう
じぶんガかれらニ奪ワレテシマウ!
私はもはや夢も現実も錯綜した混沌のなか
じぶんの名前をひたすら反芻しながら
半狂乱にナッテ脱出口を探す
逃げなければ
かれらカラ逃ゲナケレバ!
*
気付くと私は、廊下にうっ伏している
両手を合わせ握り締め荒い息を吐きながら
)どうしたの、たけし?
急に頭上から声がする
母親のいつもの落ち着いた声
途端、私は理解してしまう
)この人にはボクの恐怖は絶対分かってもらえない
同時に、
救いようのない絶望感が私を貫く
肉を魂を貫く絶望が
「五行歌、ふくインさん」
死者の舞う 、
生者の歩む、
途を照らして
逝く生く
ヒカリ
▽
あなたの
なかに
はいった
ときとても
あったかかった
△
背景に退き
ながら拝啓と
いってハ
ちりちり前かがみ
いつの間にか又ヒビキ
言うまでもなく、「<根源悪>の原体験」は氏の初期の詩、「ふくインさん」はごく最近の詩である。
時間的な乖離がそこにある点を別として、そこにはどんな違いがあるのか。結論を先に書いてしまえば、そこには氏の宇宙に対する触れ方、アティテュードの本質的な違いがある。
前者は「守られていない者の詩」であり、後者は「守られている者の詩」である。人間の本質として、前者の詩では作者は宇宙と敵対状態にあるのであり、後者の詩では宇宙との融和状態にある、と言っていい。
細かな説明については直接詩を解題すれば良いことなのだが、その前にわたしは作者と交わしたメールのやり取りのなかで得た言葉を第一の証拠として提示しておこう。
>根源悪は、あれは実体験をまんま詩表現した、てか、詩表現でしか表せない現リアルを体験してたからこそ詩表現に行き着いたので、あれは音楽からはインスピレーションは得て無いかなあ、てか、あの体験が僕という人間の絶対的なノイズ=内的トラウマになってたからこそロックに行き着いたんだと、はい。
もちろん、こういうことをすることは批評として卑劣かつ劣悪である。しかし、時としてそうではないとは言え、本人の告白以上に事情を明らかにするものがあるだろうか? わたしは知らない。
次に、簡単にわたしの言葉で見ていこう。とは言っても、あまり気乗りはしない、この期に及んで、この詩人に対する批評というものが必要ないように思えるからである。そこに必要とされているのは、信頼である。
まず、この詩のなかに伝統的な語法はほとんど登場しない。あえて挙げるとすれば、詩の後半にある「茫漠」という言葉くらいだろうか。それほどに、この詩は作者の力技で綴られているのである。
この点は、ほぼ伝統的な言葉遣いによって(また、作者自身の語法の歴史によって保証されている個人の伝統によって)書かれている「ふくインさん」とは良い対比を成している。
次に、登場人物に対する不信感と信頼感によっても、この2編の詩は明確に峻別される。
「<根源悪>の原体験」に登場する工員は作者を誘いながらもすぐに消え去り、最後に登場する母親は明白に主人公に対する理解を拒否している。
これに対して、「ふくインさん」に登場してくる者は、その初めから多様である。生者、死者、これらは複数形であろう存在たちだし(死者にあっては明るく?舞ってさえいる)、作者がその「なかに」入っていく「あなた」は、あくまでも優しい。
このように、この2つの詩は作者が詩的成長を経ているという事情を大きく超えて、大きな違いを有している、と言って良い。そして、そのもっとも違う点は、その宇宙意識だろう。
この小論のタイトルに、「それは、垂直に切断されているのか、しているのか?」と書いたように、「<根源悪>の原体験」では宇宙は決して優しくないのだが、対して「ふくインさん」では、宇宙は嘘のように優しい。同じ人間が書いた詩とは思えない、という人もおおげさではなく、いるのではないだろうか。
その原因は何か?
作品を結果論で捉えるとき、こうした印象を生み出し、左右しているのは、作品の構造と密接に結びついた、その音楽性である。
わたし自身は、「<根源悪>の原体験」にあるのは、ドラムスの響きとプログレッシブ・ロックの旋律。「ふくインさん」にあるのは、ストリングの響きとマス・ロックの旋律、であるように思う。
これも、作者の考えを聞いたままに直接書いてしまえば、前者は「直接には音楽の影響は受けていない」、後者は「ブライアン・イーノの『LUX』を聴きながら書いた」。
つまり、内容から見ても、音楽性の観点からも、前者は宇宙に抵抗しているのだし、後者は宇宙から懐柔されている。そこには、能動と受動ということを本質的に越えた、ある種の生き方/アティテュードの違いが存在している。
では、ここで問題になる、あるいは明かす「垂直に切断」とはどういうことなのか? そのためにはまず、氏の自我観について、氏の言葉とわたしの言葉のハイブリッドで語りたい。
氏によれば、世界はまず物質界とエーテル界、アストラル界に分断されている。いや、実際には分断されてはいないし、それどころかむしろ連続的であるし、それ以上の階層に微分化されてさえいる。自我は、そのそれぞれの世界にそれぞれの局面・接点で接しているのである。
いや、用語など本当はどうでも良いのだが、人の意識というものは連続的な世界に対して不連続に(とびとびに)接していると言える──でなければ、わたしたちはこの自我をなぜ(比喩的に)数えられるもののように認識出来ているのだろうか?
いやいや、これらはすべて戯言である。そう言っても良い。
要するにドラムスの響きとは? ストリングの響きとは? ということなのである。ここでは、それぞれの楽器のプレイスタイルや演奏法、音響についてイメージしてもらえば良いし、もらうしかない。
ドラムスは正しく宇宙を打撃するし、ストリングは宇宙から優しく愛撫される。そのような楽器なのだ。そして、2編の詩に流れているものも、正しくそのような音楽である──時、詩人の成長ということを云々することにどんな意味があるだろうか。
わたしに言わせれば、「<根源悪>の原体験」は、暴虐的で硬質で情熱的なエメラルド、「ふくインさん」は自愛的に燃えている薄情なルビーである。詩人は、多分枯れてなどいないし、誤解を恐れずに書けば、成長してもいない。そこにあるのは、変化──メタモルフォーゼである。
話題がいささか「宇宙を垂直に切断」からずれてしまったが、ここまで読んでいただければ、どちらの詩がどの局面で宇宙を切断し、また別の局面では切断されているのか、容易に見てとれるものと思う。
……では、なぜ「垂直」に? これはわたしとひだか氏との間で考えが分かれるのかもしれない。わたしは、そこにあるものは「コギト・エルゴ・スム」であると思っている。対して、ひだか氏は「ノン・スム」だと観じているのだから。もしかすると、そこにも本質的な違いはないのかもしれないが……
というのも、こうした議論を追って行っても、神はいるとかいないとか(わたしは、そのどちらでもあると思っているのだが)、不毛な話にしかならないからだ。……信念の話は信念の次元で語ればいい。
「垂直」というのはすなわち<比喩>なのだし、人は宇宙を感覚するにあたっては、知覚することすら不可能な深いある断面にそって、<正しく神と対話するように>とびとびの値を<推測する/し得るものとして>手探りで感じるしかないのだ。というのは、世界に接することのできるその接点というものは、互いにあまりにも離れているのだから。
そろそろ本当に長くなった。そもそも、この小論でわたしは氏の詩を無許可で全文引用してしまったし、手元にはスマホしかないのだし、誠心誠意語るにはあまりにも無知で、またお腹が空きすぎているのだし……この続きは、1年ほど経ったころに午後のコーヒーを飲んで美味しいと思ったら。