鈍い夜の後の幻想
ホロウ・シカエルボク
狂った闇が朝焼けに駆逐されていく、一晩中続いた内なる闘争は荼毘に伏される、何かが終わったわけではないし、始まったわけでもない、ただ圧倒的な力によって一区切りついただけ、眠ることは出来る、眠ることは出来るけれど、黙って目を閉じるにはあまりにも納得する材料が足りなかった、終わっていないし始まってもいないのだ、少しベッドでもたもたしたあと、後のことは考えずに起きることにした、四月も終わろうとしているのに少し肌寒い、朝食になるようなものは何かあっただろうか、卵しかなかったので目玉焼きを作る、目玉焼きを自分の望み通りの状態に仕上げることが出来た時、俺は大人になったのだと思った、大人の条件、人間はとにかく、尤もらしい大げさなことを言いたがる、でも実は、大人の条件なんていうのは細やかな出来事の中にこそある、剃刀で髭を綺麗に剃ることが出来るとか、手を洗う時に爪まで綺麗に洗うことが出来るとか、インスタントコーヒーの粉の量と湯の量を毎回ばっちりなバランスで入れることが出来るとか…信号をきちんと守れるとか、本屋の通路では鞄を邪魔にならないように自分の脇に持ってくるとか、それが大人になることなのだと思う、社会的地位が高いとか、金を沢山持っているとか、そういうことでは決してない、それは俗物として秀でているというだけのことだ―すべての動作には成功体験と失敗体験というものがある、その蓄積の中で、どうすればより上手くその動作をこなすことが出来るのかという試行錯誤がある、そうして微調整を繰り返しながらひとつひとつの動作がスムーズになって行く、衣類の畳み方や、収納の仕方、本棚の整理の仕方、日常的な掃除の頻度や、食事の時にいただきますというかどうか、ほんの少しの違いで得るものはとても変わる、ボディ・トレーニングに例えるなら、手首の角度や呼吸のタイミングなんかで効果はまるで違う、そうしたひとつひとつの些細な哲学の数が、大人であるかどうかということの基準になる、簡単に言えば、どれだけ長い時間、自分という生きもので生きているかということになる、食事を終えると皿をシンクに置いて、顔を洗って歯を磨く、起きてすぐ顔を洗う時もあるし、食事の後になることもある、今日みたいにほとんど睡眠をとっていないというようなときは、だいたい後回しになる、歯はブラッシングのみで、歯磨き粉はつけない、それは寝る前の歯磨きのときだけだ、どれだけの人間が自覚的にやっているかわからないが、歯をひとつひとつきちんと磨くというのは意外と難しい、歯を何本か完全に失ってからそのことを覚えた、もう少し早く気が付いていればと思うことはよくあるけれど、気付くというのは気付かなかったということより幾分有意義だ、だからそれについては文句を言うべきじゃない、服を着替え、部屋を見回す、特にどうするというわけでもないのだが、必ずそうする、自分の居る場所を確かめているのかもしれない、あるいは、ここが現実なのかどうかを―好きなアーティストの新しいアルバムを買いに行こうかと考える、でも大好きなドラマーはもう死んでしまった、大いにバランスを欠いているのではないかと思うとどうしても手が出ない、でもラジオで偶然耳にしたバラードは凄く出来がよかった、ラジオに感謝せざるを得ない、それがいつの時代でも…出かける前に洗濯をしておこうかと考える、洗濯機は数週間ずっと調子が悪い、脱水の途中でエラーが出て止まってしまう、排水パイプを洗ったり防振ゴムを敷いてみたりしたけれどどうしても途中で根を上げてしまう、洗うこと自体は出来ているのでそのまま干しているけれどどうにも居心地が悪い、簡単に買い換えられるものでもないし―偶然元に戻ったりしないかと思いながら使い続けている、結局洗濯を済ましておくことにした、待ち時間に幾つか動画を見る、時間になって様子を見に行ってみるとやはりエラーが出て止まっている、電源を切って洗濯物を干す、この流れになるたびに一日にケチがついたような気分になる、外出出来る服に着替えて街に出る、件のアルバムとしばらく睨めっこしたけれど今回も結局見合わせた、故人のプレイした曲が数曲あるのがネックなのだ、絶対にそこだけがバランスを欠いているだろうとどうしても考えてしまう、まあ、強要されているわけではないし、いつかこの壁を越えることが出来たら購入することにしよう…そう自分を納得させるのも何度目かわからない、空家を放ったらかしておくのが損をするという制度になって、街は更地だらけになってしまった、未舗装の駐車場ばかりが増えていく、道は新しく増えることはないのに車はどんどん新しいモデルが作られて売れ続ける、通勤ラッシュ、帰宅ラッシュ…煩わしい時間が増えることが目に見えているのにどうしてそんなものに乗りたがるやつが後を絶たないのかわからない、とうに死んでしまった神に向かって祈りを捧げ続けるようなものじゃないか、帰り道の路地で野良猫と睨めっこをする、あいつは俺の皮膚や筋肉を通り越して、その中にあるものを見定めようと目論んでいるように見えた、あの猫のような目を誰かが俺に向けてくれるなら、俺はもしかしたらこんな風に言葉を並べることをしなくて済むのかもしれない、でも、そんな安息はどうしても上手く想像出来なかった。