春の夕立ち
室町 礼

しんと寂しい春の日にむらむらと夕立ち雲がわき起
こるのはなぜなのか。
詩の批評とは詩人が詩を書くときにのみ自らの重力
の垂線にそって吊り下げられる重りのようなものだ。
神にだってひとの詩の批評など出来るものではない。
大根を輪切りするように音楽は切断することができ
ない。桜の葉のひとつひとつを仔細に裏返してもそ
れはただの桜の葉の一枚でしかない。落語家が昔か
ら同じネタを語るのに出来不出来があるのはなぜな
のか。
ずっと出来が悪く寄せの客が沈滞してどうしょうも
ないとき「お清さァん、ちょいと」というひとこと
でその場の空気を変えてしまえることがあるのはな
ぜなのか。猫が障子を引っ掻いている。
引っ掻けるものがあればわたしだって引っ掻いてみ
たい。なぜ障子が見えないのか? 在るのに見えな
い人たちが詩を書いている。その「つもり」の不思
議。輪切りできないものを大根のように文学批評理
論なるもので切ろうとする人たちがいることの不思
議。五体満足がいいというのではないが「修辞的な
こだわりに差異を見出すことしかできない」ことは
不自由じゃなかろうか。かつての名詩もにわか雨の
しぶきに洗われればその封建性をあらわにすること
もある。
ここからあとはかなり雑になります。

  妻はしきりに河の名をきいた。肌のぬくみを
  引きわけて、わたしたちはすすむ。

  みずはながれる、さみしい武勲にねむる岸を
  著けて。これきりの眼の数でこの瑞の国を過
  ぎるのはつらい。

わたしはね、こんな詩を荒川洋治くんがノートを手
にもって二宮きんじろうのように歩いて朗ドクして
いたら、後ろから走っていってそのおいどをね、
思い切り蹴飛ばしてやりますね。
ええ。つんのめりになろうが、死のうが構わない。
なに気取ってるんだ、てめーって。
石を投げろの荒川くんのことだから、ゆるしてくれ
ると思う。
荒川くんのことだから「やったなあ、畜生、畜生、
みてろ、ここでウンコしてやるからぁ」
といって道ばたで脱糞をはじめるかもしれないけど。
なにもね、殴り返せばいいのに報復がてら道ばたで
うんこはないと思うんだけど、もし路上でウンコし
たら、いかにも荒川くんらしいとおもう。
「おまえなあ、おまえ。よ、吉本大先生がぼくを褒
めてくれたんだ。ばかたれ」そういったら
もう一度、うんこ中の荒川くんのケツけっとばしま
すね。
しかしこの凡俗であるわたしが殺意すら覚えるこの
いかにもふんぞり返った詩人特有の「気取り」はな
んだろう? どうみても二宮金次郎じゃないですか。
ああ、いやだなあ、マスもかくしヨダレも流す市井
の人よ。滔々と歌うなかれ。段ボールの陰にひそみ
歌え。
しかし吉じいも大風呂敷広げたものだ。
これが戦後現代詩の不幸のはじまりだ。たぶん日本
の戦後現代詩ってただの大風呂敷の集まりだった。
詩に縁のない才能も学もないわたしは凡俗の一人と
してそう思うのだが。おそらくわたしのいうところ
の詩の批評の不在がそうさせたのだろう。
それにしても当時の荒川くんの詩はそれはそれでい
いのだけど、そのあとの現代詩ってここまでひどく
なれるものなのか? 
「プーチンの不条理」なんていう連中だからなあ。
ま、しょうがないか。


自由詩 春の夕立ち Copyright 室町 礼 2025-04-19 10:13:51
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