ナレーション魂。ナレーション熱
鏡文志
人は、ナレーションによって世界を正しく認識しようとするものである。
例えば目の前に石があり、草が生えていて、それは今どこにいるのかということを認識しようとする時、無意識の中でナレーションが働いている可能性がある。私はここで生まれて、こんな人生を歩んで今ここにいる。その物語が残像のように記憶として残っていて、状況を把握する。どう動けばいいか? そう言った瞬間的対処としての蓄積だけだと猿やロボットのようだけれど、そういう自分の持っている物語をきちんと整理して生きるよう努力してこなかった人も沢山いることを私は知っている。そういう人は皆従うことによって、生き延びることが出来る。従う人がなにに従うか? 従いたがるか? 集団で力を持つ者。人気のある者。すると現代ではテレビとそれに影響されやすい人に従うことが多いだろう。テレビの持っている反復効果。一日に大量に情報を流し、公を独占するほどになった、その影響力。集団で人気が出る人間は、集団で一番共感を得る人間である。集団で一番共感を得るには、皆が知っているものを知り、皆が好むものを好むことが不可欠。思春期ならセックス。sexの問題に関し、恥ずかしさを前面に出す男子が集団で一番の人気者になることはおそらくあまりない。ファミレスが好き、コンビニで買い物をするのも、好き。テレビで広告を出しているものは大抵好き。いじめっ子とかあまり関係ないね。いじめは集団でやる遊びの一つだから、いじめが人気の理由ではない。いじめは人気があるからこそ楽しめる遊びで、いじめが出来るから人気がある訳ではない。しかし、人気がある人は当然いじめをやる。だから混同されやすく、いじめられている人は、その人に問題を求められやすい。その上で、いじめはやはり悪いと言う二重構造が出来るのだ。
私はテレビ信者では昔からなかったし、ナレーターとしては正気でも、集団からは阻害されやすい。共感を得られにくいから、正しくは
「お前のいうこと分かるような気がするけど、大多数の輪の中に馴染む考えじゃない気がする」
こんな感じで、敬遠されてしまう。
流行り物を追い、皆がいいと言っている音楽を聴き、個性的なようで実は無個性なものに価値を見る。テレビ出現以降この国はそういう人が常に人気なのだ。
一方でそういうテレビ的なものと対抗する形である、カウンターカルチャーの世界はどうか?
カウンターカルチャーの世界は、テレビ的な無個性を賛美しない。私にとってはこちらがむしろ王道だった。人間はホモサピエンスとして遊ぶ生き物である。テレビがある前からその遊びを作る動物としての、人間はいた訳で、むしろそう言う人たちが今日における人々が慣れ親しんでいる遊びの土台を作ったのだ。
タモリだったり、たけしだったり、そういった人達が、自分たちが考えた遊びをテレビに持っていったのだ。そしてそれがウケると、皆が真似し出す。大量にばら撒かれると、それがまた新たなテレビ的な遊びになる。
しかし多くの大衆は語り手としてのタモリであり、たけしをそれほど好み、理解出来ていたか?
彼らに大衆が求めていたのは、ちゃんちゃらおかしいよであり、お笑いであり、理屈や思想ではなかったと思う。
現代における北朝鮮的とも言えるニュース番組独占の時代は、受け手が語り手を求める成熟を遂げることが出来なかった堕落を表しているのであり、優秀な語り手がたけしタモリ以降ほとんど育たなかったことを表しているとも言えるのである。
松本人志にはその力があったかも知れない。太田光にも。彼らの語りや表現には世の中というものはこういう風に出来ているという、視点の提供があったと思う。そこには強烈な灰汁の強さがあった。しかしその熱もネトウヨなどの言論弾圧により、ダメになってしまった。受け手としての大衆が彼らに言論弾圧を跳ね返す以上の熱で語りを求めていればそういうこともなかったかも知れないが。
しかし混沌の中を彷徨いたくないと思う人間にとっては、常に今の世の中はこうなっているのだという最新型のナビゲーターが欲しいのだ。今のテレビに信頼出来る語り手であり、パーソナリティがいるだろうか? 私はいないと思う。いてもテレビがそういった人達の語りに時間を割き、それを受け手が熱心に聴きたがるまでの成熟がないのだから、仕方がない。
私が昔から熱心に追っていた語り手は、渋谷陽一、太田光、小林よしのり。
どれも毒舌の部類に属する語り手だが、多分その時々で、正直に語っている人に信頼を置いていたと思う。
桑田佳祐の歌にも優秀な語りがある。しかしコロナ以降は、聴く気がしない。
「老人のためにステイホーム。若者は家に閉じこもれ」
と歌い、ラジオ番組でコロナ国民一同外出自粛中にバーベキューをしている若者のニュースを取り上げて、叱咤しているのを聴いた時、私はこれは大人の若者虐めだと感じた。虐め加担者をパーソナリティとして信頼する訳にはいかない。
絵はどうだろう?
絵にも世界観が表れている。こういう視点で世界を認識することも出来ますよという視点を提供している。
するとこれはものを語ることによって、視点を提供することを別の形でやっているようにも思える。
この視点の提供と言うものが表現という形式の、どの分野にもあるように思える。
私は昔からパワフルな語り手が好きだ。すると自然と強烈な個性=キャラ的なものを含む、を好きになることが多い。なんでもオリジネーターが好き。パイオニアとしてのオリジネーターは、形式的なものの土台を作る人。
例えば松尾芭蕉だったら、芭蕉的なものを多くの人が真似て、その中で色々な作品が生まれますよね?
その様式としての芭蕉的なものを好きという人もいるでしょう。これが作品主体の考え方。
立川談志が言っていたのは、俺は立川談志という作品を演じている。志ん朝は落語という作品を演じていると。その違いでいうと、志ん朝というキャラに強烈な個性であり、語り手としてのオリジナルを求めても仕方ないと思ってるのです。志ん朝は古典をどう演じるかというそれまで多くの落語家が築き上げてきた土台の上で輝く人なのです。
私が熱心に追いかけていた表現者は、作品を見てくれじゃない。皆俺を見てくれだった気がする。
ウォルトディズニーや鳥山明が人気があったのは何故か? 彼らは俺を見てくれじゃない。作品を見てくれ。だから舞台裏を語る姿もあまりない。俺を見てくれは、どの時代も嫌われるのです。ヴァンゴッホもパブロピカソもとてつもない批判を浴びて来た人です。無視されることさえあったでしょう。目を背けるような個性があったからです。宮沢賢治もそうです。夏目漱石もそう。彼は無私的なものを好んで語りましたが、彼らは決して無私の人ではなかった。強烈なエゴイストだったと思います。
エゴや無私というものをどう考えるか? この世界の中で自分が追うべき役割を知り、それを真っ当したいという時、そこには欲望があります。それは、食べ物が食べたい、集団で目立ちたいという欲望とは、また違うものです。それが全う出来た時、その人は無私になる。つまり海の神であり、山の神と同じ存在になる。私はそのようにこのエゴであり、賢治や漱石が唱えた無私というものを捉えています。
集団で追うべき役割を自覚した時、その人は集団の中で良いキャラになります。
マリリンマンソンやジョンライドン、AV女優に至るまで、私はこのキャラを持っている人に惹かれます。
キャラを持っていると多くの駄作が許容されるようになります。たけしさんがなにをいっても笑う観客。啄木の詩ならなんでもありがたい。熱心なファンならば、ブッダのした糞までありがたがるかも知れません。おっと、これは失礼。キャラを持っている人は強烈な灰汁を持ちながら、決して俺俺じゃないね。なんかどこかで集団における役割を考えているよ。キャラが宗教にまで格上げされたら、遂にその人達は人々の中で無私の存在になります。たけし万歳! たけし狂まで現れるほどに。しかし、松本は宗教的な存在にまでなれただろうか? タモリや、太田光は、そこまで崇められただろうか? 彼らはそこまで行きかけた可能性があったのですが…
どこかで欲に走るとダメだね。AV女優も国民全員のおしゃくをして国を一周するぐらいじゃないと、聖人にはなれないな。
ジャックニコルソンも好きです。彼も抑える時は抑える。前に出る時は前に出る。それをしっかり意識してやるじゃないですか? 彼の育ての親ロジャーコーマンについてニコルソンが
「作品は駄作が多いけれど、優秀な若手を見抜くのに、彼じゃなきゃダメなんだ」
と語った言葉は、ロジャーコーマンという人の影の業績をあらわしている。
モンティパイソン、ブライアンウイルソン、中島らも。エキセントリックだったり、エログロだったり、強烈な個性を放つものの好みの中に彼らに無私を見る。聖人を見る私の尊敬の念があるように思います。