かりんとうでも齧りながら  
室町 礼

──「持丸長者」とメディアと久坂葉子 Part 2──

えー、いきなり堅いお話ではじまって恐縮ですが、
現在の日本というのは文学がどこまでも衰退して
いる国といってもいいと思うのです。一国の文学
が衰退するということはたぶん全社会、全人間が
衰退し、全劣化しているということになると思い
ます。しらんけど。
日本の全社会情況(文化)が没落した原因はいろい
ろと個人的に思うところもありますが正直なところ
それを今更とりあげてみてもしょうがない。
どうしょうもないほど必然的な流れがあってそれが
今の陥没した全情況を生み出しているのですから、
神に抗ってもどうしょうもないのと同じです。
しかし「どうしょうもない」のが事実であるとして
も、それをいってしまうとこの話はそこで終わりに
なります。身も蓋もない。
まあ、ぶっちゃけじっさい終わってんですが、お茶
でもいれて激安スーパーで買った、かりんとうでも
齧るのもいい。大谷のホームランでも見ていれば
「いや~な感じ」も少しは失せるというものですが、
大谷くんが毎回ホームランを打ってくれるわけでも
ない。
そこでちょっと愚痴をこぼしますが、日本の文学──
詩、小説、批評、映画ドラマシナリオ、歌謡曲歌詞
etcがここまで劣化したのは疑いようがないとして、
でも、ほんとうなら「批評」というものがちゃんと
息をしていればここまでの腐敗は防げたはずなので
はないのでしょうか。
たしかに詩の批評は盛んです。
詩の批評理論ひとつみても、よくはわかりませんが
どこまでもアクロバティックに複雑難解化して知的
興奮をかきたてる。それはいいのですが、外から見
るとあまりにも空疎です。なぜ外から見ると空疎か
というと勿論、その批評理論が外と繋がっていない
からです。たとえば「励まし」が"外からの声"であ
るようにほんとうは「批評」というのは"外からの
声"なんです。
これはほんとうに不思議なんですが、心の機微と申
しますか「励まし」が内からの声で成り立つこと
はほぼないのです。それと同じで「批評」が外と繋
がらないということは、それはどれほど精緻な理論
でも、内なる、あるいは内輪のただの石ころ、極彩
色の精緻な「玩具」でしかないということです。
そして「批評」が「批評」であるために"外とつなが
る"には外部世界の認識を絶えず更新していかなけれ
ばならないのに、
残念ながら今の文学全体が党派性に支配されており、
芸術が芸術として評価されないで一面的な党派性に
よって評価されている情況がありますから寸毫も新
しい世界観は開かれず「批評」が成り立たないので
す。
当然、詩の賞も小説の賞も脚本や批評の賞もほんと
うに芸術性のある作品が選ばれず、まず”党派性”の
検閲を通らなければならないのです。逆にいえば今
どきの文学は党派性さえ押えておけばどんな愚作で
も賞をとることが出来ます。こんな澱んだ世界から
新しい文学など生まれるわけがないのではないかと
心配するのですが──。

大阪の谷町筋に「大阪文学学校」という詩や小説の
カルチャー学校があって、そこに三年ほど通ったこ
とは前に語りました。
このカルチャー学校、詩人の小野十三郎によって19
54年に創立されたということになっていますが、も
ともとは日本社会主義青年同盟(社青同)の松岡昭
宏という人物が「大阪詩の教室」をつくったのがは
じまりです。
「社青同」というのは日本社会党の青年部が前身で、
当時は全学連(全国学生自治会総連合)の一部を構
成していました。この「社青同」はのちに「社青同解
放派」として三派全学連の一翼を担い、苛烈な内ゲ
バ闘争に明け暮れることになります。
「大阪詩の教室」のスタッフだった詩人の小野十三
郎はその後、総評(日本労働組合総評議会)の支援
を得て「大阪詩の教室」を発展解消させ「大阪文学
学校」を改めて開校しのです。
つまりわたしが知らずにふらふらと入ったこの学校、
最初から
ずぶずぶに党派的な、政治色のついた文学カルチャー
学校だったわけです。学も知識もないわたしは、ま
さかそんな党派色の強いサヨク系の学校とは思わず
大枚をはたいて入学してしまったのですが、
今から思えば痛恨の極みです。
そのおかげで事務局の面々に睨まれてずいぶん苦労
しました。党派的な思想の押し付けに反発していち
いちわたしが異を唱えるから目をつけられました。
合評の席で少し強い調子で批判すると、ベニヤ板の
ような隔壁一枚の後ろにある事務局の面々が憎々し
げな表情で出てきて静かにしろと厳しくわたしを睨
みつけ、
ときには教室から退席させられたこともありました。
教師も一部古株の生徒も、そして講演に来る文学者
たちも温厚で知性的な方ばかりでしたが、一方で、
漠然とした、しかし本人が気づかないほど強固なサ
ヨク思想にこりかたまっている人ばかりだったこと
には驚愕しました。
個々人がどんな政党に属しようと、どんな思想信条
をもとうと本人の自由であって、それを否定するつ
もりはありません。しかしそれが外部世界をみる眼
を一元化して曇らせていることに、校長の長谷川龍
生のような「邪眼」(よこしまな眼)を説く詩人で
すら気づいていないことは信じられない出来事でし
た。
いったいこれは何だろう? と思いました。それで
も素晴らしい詩は書ける。しかし外部世界がちゃん
と見えているのだろうか? みなさま凄い詩を書か
れるのはわかっているし尊敬もしているのだけど、
そんな詩人がわかりもしないで政治的な発言をして
いいのだろうか?
校長の長谷川龍生以下、全講師、全古参生徒そして
定期的に講演に来る荒川洋治、野村喜和夫といった
当時の先導的な詩人たちすべてが政治や社会を語ら
せると一元的な左翼的党派的な見方しか出来ず、全
員右にならえで、その薄っぺらい一面性にはまった
く腰を抜かすほどの驚きでした。
しかも、彼らは世界を見る目が一元的であることに
まったく自覚がない。
例えばこんなことがありました。当時、
2001年2月9日、ハワイ沖で日本の実習船「えひめ丸」
が米国の潜水艦に衝突され沈没し、9人が死亡する事
故が発生しました。この時、当時の首相だった森喜朗
はゴルフ場でプレー中でしたがそのことが報道され猛
批判を浴び、結果総理大臣を辞任するに至ります。
文学学校の講師、講演に来る文学者、生徒たちが座敷
で酒を飲み交わしていたときのことですがわたしを除
いて全員が森首相を罵倒、非難して即刻辞めさせるべ
きだという意見であふれました。
休みの日にゴルフ場でゴルフやってたからといって、
どこが悪いのかというのがわたしの反論です。この意
見の背後には脳天気で、お人好しで、悪い企みの出来
ない森のようなあからさまなで凡庸な人物が首相には
一番適しているのだというわたしのというか一般大衆
の世界観がありました。
理念なんか述べる男が首相になればとんでもないこと
になるという庶民の思想です。
おそらくサヨクリベラル的な党派性に固まった文学学
校、──というより文壇、詩壇の中枢にいる知性は森
喜朗がかつて「日本は天皇を中心とする神の国」と発
言したことに怒っていたのでしょう。
馬鹿馬鹿しい話です。そんなことはまったくもって何
の意味もない発言です。森喜朗の個人的な宗教幻想に
すぎない。日本の軍国化を恐れるならむしろ米国がも
たらす資本主義思想のほうがよほどの脅威です。とこ
ろが文学に関わる人たちにはそれがわからない。結果、
戦後の失われた三十年をつくる発端となる小泉純一郎
という化け物が森喜朗に代わって登場するのです。

さて、ここで「持丸長者」の話に戻りますが、
「持丸長者」たちが日本支配のために新聞を取り込ん
だのは何故か?
わたしの個人的な考えですがおそらく批評の担い手、
──作家や詩人や思想家やシナリオ作家たちが、新聞
や大手出版社、テレビに寄食していることと大いに関
係があると思っています。
作家や詩人や批評家やシナリオ作家たちの最大の弱点、

  彼らが大手メディアを批判できない

ところにあります。
NHKや朝日、毎日、文春といったメディアに寄食し
ている日本の文学の担い手たち、関係者たちはテレビ
新聞を批判できない。それどころか今では頭から主要メ
ディアの報道を信じるようになった。
例えば今朝(2024/04/09)、起きてみるとネット上の
ニュースにこのようなことが報じられていました。
【はしかの流行が復活中、反ワクチンの台頭と米国の危
機】
これはナショナル ジオグラフィックの報道をgoogleニュ
ースがとりあげていたものですが、
日本でも今、しきりに「麻疹(はしか)の流行」が取り
沙汰されてニュースになっています。
おそらく100人中100人がそのままニュースを鵜呑みに
して「ああ、今、この国では麻疹が流行ってるんだ」と誤
解するでしょう。
でも、実際には麻疹は流行っていません。
それどころか五年前と比べてむしろ減っているのです!
森田洋之というめずらしく日本では正直な、稀有な存在と
いってもいい医師が科学的にグラフを示して世界的なデマ
を全否定しています。
https://note.com/hiroyukimorita/n/ndbd0b6a46ea3
こういう統計など少し調べればわかりそうなのに日本の
全メディアがなぜ麻疹が流行しているなどと嘘を並べる
のか? 
あるいは外国のメディアがデマをさも真実のように報道
するのか。現在のメディアが資本の論理に取り込まれて
いるからです。つまり「麻疹の流行」というデマを煽り、
ワクチンの世界的な販売に一役買っているのです。その
一方でワクチン批判(反ワク?)を閉じ込めようとして
いる。ウソ、デタラメまでついて。
そう、倫理の破綻。人間性の壊滅が今のメディですがそれ
は詩人が忌避する「天皇は神だ」という保守的な信条から
来るのではなく、資本に取り込まれた人間性の倫理の破綻
から来ているのです。
そしてその人間性が崩落したメディアを盲信して思想や
行動の指針にしている日本の文学を担う人たちが、如何
程に素晴らしい詩が書けたとしてもその基盤となる世界
認識がデタラメであることはいうまでもないことです。
ということは当然、外部世界との繋がりが出来ない、
閉ざされるということに他ならないのではないでしょう
か?
「持丸長者」が国を支配するためになぜ新聞社を押え
ようとしたか、このあたりに解があるような気がします。
(この項、つづく)










散文(批評随筆小説等) かりんとうでも齧りながら   Copyright 室町 礼 2025-04-09 06:28:11
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