砂の城の考察 #2
まーつん

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そんなことをつらつら考えていると、自分が昔ほど読書という行為に夢中になれないのも、SNSに溢れる言葉を真に受けきれないのも、故なきことではない、と思えてくる。どんな言葉にも、わずかな嘘が紛れているような気がするからだ。

言葉なんて、いい加減なものだ。偉人の金言や聖者の教えでさえも。

いや、本当にそうだろうか。

言葉の不確かさを表す例として、私が挙げてきた「物語や詩」は、誰かの心象や想像だが、「金言や教え」というのは、長い間その正しさが多くの人間に認められてきたからこそ、今現在まで生き残ってきたのではないか。いい加減さは、「金言や教え」の正しさを認めても、実行や解釈の段階で過ちを犯してしまう受け手の側にあるのではないか。「汝の敵を愛せよ」と言われて、それを実行できる人間がどれだけいるというのか。

宇多田ヒカルは「桜流し」という曲の中で、「Everybody finds love in the end」と歌っている。全ての疑問の答えとなり得る何かが「愛」であるのなら、「愛」を「真理」に置き換えてもいいだろう。そしてもし、「真理に辿りつく道」があるとして、総ての人間が、意識的に、あるいは無意識にの違いはあるとしても、その道を歩いているとしたら、その歩みを進めるのに言葉はどれほどの助けになるのだろうか、と思うことがある。

「汝の敵を愛せよ」という教えを聞いても、大多数の人間にとって、それが敵を愛することを実行する助けにならないのであれば、聞いても聞かなくても結果に変わりはないように思える。

主体性という天秤の皿にそれぞれに、相対する生き方を乗せるとしたら、一つは、無数の名作や教典を読み耽ること、もう片方には、他人の言葉に振り回されずに、好き勝手に生きていくこと、が挙げられる気がする。

僕の予想では、好き勝手に生きていくことを乗せた皿の方が、ぐっと下へ沈み込む。

それは行為と言葉の差であり、人が本当の賢さを得る手段として、行為は常に言葉に勝ると信じているからだろう。言葉は「近道」を教えてくれはするが、実際に歩くという行為こそが経験を生む。そして言葉は経験の代理にはなりえず、経験こそが真の糧としてその人の内面を形成していく。頭でっかちになるなってことだ。まあ、こんな文章を書いていることが、頭でっかちな振る舞いそのもの、という気もするが。


散文(批評随筆小説等) 砂の城の考察 #2 Copyright まーつん 2025-03-23 13:05:10
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