イメージについて/足音に影を落とす (白と黒の考察)
洗貝新

 
 ユダヤ人どもを閉じ込めておけ!

もちろんこれはわたしの本意ではなく1941年第二次世界大戦当時ナチス政権の人種隔離政策を代弁した言葉である。
ゲットーと聞いて思い出すのは映画「シンドラーのリスト」の一場面だが、主人公のシンドラーが馬上から見下ろす凄惨な光景。
すると突然映像はカラーから白黒(モノクローム)に切り替わります

映し出されたクラクフのゲットー。その中をただ一人真っ赤に染まった少女が彷徨いながら歩いていく。おびえるでもなく逃げ去るわけでもなく、ただ何事か理解できないことに対して彷徨っているのだ。母親を、あるいは父親や兄弟を探し求めるように。
あの場面には真実胸が痛んだ。あのシーンはいまでもわたしの脳裏に焼きついていて、それくらい強烈なイメージだった。

いまではフィルム画面も高画質なカラー映像に処理されて映し出されている。
というわけで、日常では思いもつかない白黒のイメージについて考察してみようと思う。あくまでも詩を対象にして。

書き物とはそのほとんどが白い面に黒い文字で綴られる。

タイトルに置いた「足音に影を落とす」。とはどういうことなのか。  
このことについて少し論じてみようと思います。
足音に影を落とす。あるいは足跡に影を落とす。
カラーに映し出されていない白黒のイメージについて思い浮かべるのは何でしょう。
白と黒い色だけの世界。
そんなものがこの世界に存在するのでしょうか。
例えばわたしが全盲だとして、わたしは全盲ではないので瞼を閉じてみます。
すると世界は暗闇に包まれてきます。
それでも、しばらく眼を閉じていると微かな光を感じることはできる。
暗闇とはそれは全く黒い世界だけではない、というのが理解できます。

物理的に言えば自然界には完璧な黒い色は存在しないと言われています。 
これは黒い色が100%光を吸収できないからで、白い色は100%反射できない。
ご承知のように、どんなに色を混ぜ合わせても純粋な白と黒い色は作り出せないのです。
では何故この多くの彩色に囲まれた世界で、ときにモノクロームな世界観が必要とされるのか。
そんなこと少し考えれば~と詩こころに長けた読み手の方々、
~なんだよそれ。もうおわかりのことだと。そんな思いにも駆られてはきます。ですが。で?を

書き物についての白と黒の世界観(イメージ)

先に映画「シンドラーのリスト」の中で突然白黒に切り替わる場面について述べました。
あれは何を表現しよう、またはしたかったのか、ということについて少しだけ考察してみようと考えます。

光に満ち溢れ、日常は彩りに溢れた世界のなかで我々は暮らしている
あのモノクロームに切り替わる街に敷かれた強制収容所の場面には、大きく分けて二つの効果があると感じています。
当時の状況を暗い場面でリアルに再現する歴史的な意味付け
そして馬上から見下ろす主人公のこころの内に秘匿された暗闇の部分。
第三者の立場で画面を眺める我々に、
、その暗闇の部分が容赦なき残酷な審判の鐘と鳴り響き伝わってくる
我々は我々自身が秘匿したであろう神の存在を否定しなければならない、という
耐え難い慚愧の念に駆られてしまうのです。

ここまで書けば鋭い読み手の方々にはもうおわかりでしょう。
あの映画のあの場面で使われた白と黒の演出効果とは、
過去の歴史を辿り現実に振り返ると同時に、人間本来の存在理由を超越して考えさせられる非現実
そして、主人公或いは作者の眼を通して我々に語りかけてくる日常の中にある非日常としての空間をイメージに見立てているのです。

さて、このことを書き物として映像からイメージとして移行するにはどうすればよいのかを。
そこでわたしはこのタイトルに置いた「足音に影を落とす」或いは「足跡に.....」として考えてみようと思いました。
もちろん「足音に影を落とす」或いは「足跡に影を落とす」この意味合い自体は隠喩でしか他なりませんが、
、感覚的なイメージとして捉えたらどう伝わるのでしょうか。
足(脚)や影(陰)にまつわる比喩表現、主に慣用句などはたくさんあります。
足を引っ張る。
足を使う足が地に着かない
足が重い 等々
同様に、影が薄い
影を踏む
影(景)を落とす 等々
二つ以上の言葉が重なる意味表現ですが、ここではその結び付く意味表現自体を言いたい訳ではなく、イメージとして捉えてみたいのです。
そして副題に掲げてある白と黒のイメージについてを取り上げることになるのですが、
ここでいう白とは無色透明な光だと考えてもらえれば、黒は影(陰)のイメージとして説明しやすくなります。
そこで、足(脚)という存在の具体的な動きをイメージに、二つの例を取り上げてみたいと思います。。

足音に影を落とす。または足跡に影を落とす。についての例文

 先ず、足音(跡)に影を落とす。とはどういうことかを考えてみましょう。
足音とは、もちろん、これは路面に対して歩いていく、または歩いてきた靴の音で、そのことに影を落とす。とはいまを歩いている、または歩いてきた人生に対して影を落とす。と考えられます。では影を落とす、とは一体どういうことか、これが影が差す、あるいは影を差す、ならば人生に対して不安感が募る、ということに受け取れるのですが、影を落とす、となればその意味はさらに強くなります。不安感がより現実のものとなって自分に対して現れてきた。といっても過言はないでしょう。
つまり、足音(跡)に影を落とす。とはこれまで歩んできた人生の土台に、暗い不安定な成り行きの予感(予想)がする。または映し出され見えてきた。ということの解釈が成されるのだろうと読めてきます。
光が対象物によって遮られる暗い影(陰)しかし暗い闇の世界とはいえ、まだまっ黒に黒いとは言い切れない。ダークな世界観です。
これに対して白い世界観とは一体何でしょう。
黒は光を吸収し、きに白は光を反射する。
白い色とはそれだけで清らかに純粋なイメージを呼び起こされてきます。
わたしはこの自然界には存在し得ない無垢で清廉潔白な色を、決して妥協を許さない抵抗の色として光をイメージさせることにしてみます。
そのように考えれば「足音(跡)に影を落とす」この暗いダークな世界観を予期してしまう文面を用いて、逆に白い世界観をイメージさせることはできないだろうか?
 例えば、影(陰)を落とす。というこの動作を少し変えてみたらどうでしょう。
 影(陰)を消し去る。 足音(跡)の影を消し去る。この影を消す、という行為で白のイメージがわき上がるでしょうか?
いいえ、まだ少し足りない。黒い混色が足音(跡)に未練を残すようにこびりついています。
ならば、 足音(跡)の影を照らす。ではどうでしょう。照らす、という光の動作を言葉で表現することによって、少しは幸福感漂う白色の世界観が見えてきたのではないでしょうか。

















                         ※画面がバグって仕方ないのでちょっと休憩します。



散文(批評随筆小説等) イメージについて/足音に影を落とす (白と黒の考察) Copyright 洗貝新 2025-03-22 15:40:41
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