詩人はなぜ政治バカになるのか
室町 礼
以下の発言は1987年9月12日
東京・品川の寺田倉庫T33号館4階で開催された、
「いま、吉本隆明25時―24時間講演と討論」での吉本の発言です。
国家と資本が対立したときは、「資本につく」って
いうのがいいんですよ。わかりますか?だから国鉄
が民営化、分割されるっていうんだったら、原則と
しては、その方が正しいんですよ。
原則は、はっきりしているわけです。つまり、分割
民営化のほうが、国有よりもいいに決まっているわ
けです。
吉本隆明という人は詩も尖ってますし言語論や宗教論をやらせれ
ば相当に突っ込んだところまでいける天才的な人ですけど、
詩人の一番弱くてダメなところがこの発言に如実に出ています。
つまり政治や社会について語らせるともうどうしょうもなく愚鈍
なことを平気でペラペラ喋ってしまう。
これは詩人だけでなく芸術家一般についていえることですけど彼
らが芸術的感性でもって創造活動や表現行為というものに全身全
霊で打ち込んでいるところから来る外部への無知無関心が原因に
あるのじゃないかと疑っているのですが、その情熱や熱意の大小
強弱はあるにしても概ね彼らは芸術的な行為から一番離れた、一
番ステージの違う政治の問題についてはもうどうしょもなくトン
マです。
上の吉本発言は「大きな政府」か「小さな政府」かという問題に
集約できるのですが、吉本にならったのかどうか知りませんがサ
ヨクリベラルは「小さな政府」がいいという。民間に出来ること
は国家にやらせるなと。国家の権限は出来るだけ小さいほうがい
いいと。
そういって吉本以来そういう方向に今日までダダダと流れてきま
した。わたしにいわせると愚の骨頂です。
いいですか、国家(政府)が権限を放棄してその仕事の多くの部
分を民間にまかせると、逆に官(国家)の利権は無限大に膨れ上
がるのですよ。
こういうことに気づく人が批評家や詩人に何人います?
一人だっていませんよ。でも、
ちょっと考えてみればわかることです。一般庶民大衆にならすぐ
にわかることですが、
国鉄が国の仕事であった間は、たとえば車両製造の許認可権は国
にはないのです。国がやっているのだから国の許認可もくそもな
く、同じ仲間うちの部署の判断でどんどん計画が進められます。
でも国鉄を民営化したらどうなります? あらゆる計画の隅々ま
で国の許認可(届出 許可 認可 登録 免許)が必要になり、
そこに無限の利権が生じるのです。
国の事業のあいだは利権は生じません。だって国の仕事だから。笑
こういうこと、わたしがちょっと指摘すると頭のいい人はすぐに
「あっ」といってわかってくれるのですけどね。言わないとそう
いうことまったく気づかない。
国鉄民営化で当時の中曽根自民党がどれほどの利権を得たか。利
権というのは官僚や政治家をやめてからの天下り先を無限につく
ることも含めての利権です。国がやっているあいだは天下り先な
んかないのです。でも民営化すれば天下り先になります。
吉本のような頭のいい人でも「小さな政府」がどれほどの闇をつ
くりだすか、まったく想像できなかった。それは頭のせいではな
く現実の庶民大衆の生活を知らなかったからです。吉本のように
庶民に溶け込んだ生活を送った人ですら、頭でっかちな詩作行為
や批評行為に専念していたからそういう基本的な世間の構造にま
たく気付けない。そしてもっとも悪いことには、机の上では正し
い理論であると思い込んでしまうことです。
今現在の詩人や知識人、批評家などは吉本のような分割民営化、
つまり小さな政府主義者で徹底的に国家を小さくせよといってます。
それが利権を無限大に拡大することであるとも知らず。
吉本がいうような国家より資本につけというグローバリズムとい
うのはそういうことなんです。一般大衆庶民が汗水流してきづき
あげた富をを徹底的に官に搾取させるということになるんです。
いいですか。よく聴いて下さい。こんなこと大学でも既存の批評
本にも書いてませんよ。わたしからしか学べません。
サヨクリベラルには国家というものが何か悪のように思い込んで
いる人がいますが、民主主義社会における国家はむしろ資本の暴
虐に対抗する唯一の組織なんです。基本的には一般庶民の側にあ
るのです。その国家がほんとうの民主主義国家なら。
そして吉本のような無知な詩人が称賛するグローバリズムは、む
しろ無限の利権を国家に与えるのです。
具体的なイメージをいえば、グローバリズムの究極においては東
京に霞が関だけがあって、それ以外、政府の仕事はすべて民間に
委ねられている状態です。そこでは刑務所も警察組織も民間です
が、霞が関といいう狭い地域が無限の利権を行使しているのです。
これが「小さな国家」の究極の像です。こんなものが国民大衆庶
民をどれほど抑圧する状態であるか、詩人といいながら一ミリも
想像できないところに詩人のもっとダメなところあるのであって、
当然、いつの時代でも戦争に強力してきたわけです。
吉本あたりならマルクスも読み、山のような政治論を研究してき
たはずですがそれでもこうなるのは何故か。
わたしが何度もいうように今どきの作家、詩人、批評家が実際に
は戦後からずっと飽食平和に浮かれて「生活」をしてこなかった
からです。できなかったといってもいいです。これは日本だけの
独特の悲劇であるといえると思います。