「強さ」の研究
室町 礼
図書館で
タイトルがふと気になり
なにげに一冊の本を棚から抜いてひらいた。
ひらいた瞬間、なめくじのような、
ぬるっとしたものが、
べちゃっと左の手のひらに滑り落ち、
手首の血管の上をはって
袖のなかに潜り込もうとする気配を
感じた。
ただの「感じ」にすぎないのだが
悪寒のようなものが身体をつらぬき
とっさに本棚に返した。
しかし、やはり気になる。
おそるおそるもう一度、
眉をしかめ、
震える指先で本を手にとった。
『弱さの思想』
副題が「たそがれを抱きしめる」とあった。
著者は高橋源一郎+辻信一とある。
これはいけないものを見てしまったと後悔した。
しかし、
今わたしが直面している2000年以後のサヨクリベラル
の欺瞞性と凶暴性を
この二人の対談が補助線となって理解する助けに
なるのではないかと直感的に思い直し
生まれてはじめて、イヤイヤながら
(穢らしいものを扱うような手つきで)
貸出しの手続きをとった。
共著本によれば、
高橋源一郎と辻信一は「弱さの研究」という共同
作業をはじめたのだという。
帯にはこうある。
「弱さ」の中に効率至上主義でない新しい社会の
可能性を探ってみたい。
いや、現在でも社会は結構非効率ですよ。
むしろ効率至上主義とはほど遠い社会だと思うけどね。
スーパーのレジで並んでいても、効率化のつもりで
お財布ケータイとかカードで支払う人がいる。と、そこで
むしろ流れが止まってしまう。
それが老人だと、ほぼレジは機能がマヒしてレジ係の
説明からはじまる。現金だと簡単なのに逆に手間が
かかっているのが現実だ。わたしなどイラチだから
(「おいおい、
ジィちゃんバアさんよ、慣れないおサイフケータイ
なんか持ち歩かないで現金もってりゃいんだよ」)と
内心舌打ちをしている。
「(全然ん効率してねえじゃねえか」)
とまあ、それはともかく、
パラパラめくってみると
「弱くある知恵」とか「勝たない知恵」と
いった言葉がこれでもかと山のように刷り込まれている。
へ~え、知恵がある人たちなんだ。そして、
どこまでも「弱さ」とか「不能」にこだわっている。
共著者本人たちは弱くも不能でもないんですけど、
なぜか「ダメさ」とか「無能さ」とか「弱さ」を推奨
している。
何を研究しようと勝手ですから、うーん、どうぞご自由
にと
いいたいところなんですが
ただ、その「弱さの研究」対象のメインフィールドが
脳性マヒの子どもや精神障害をもつ子どもたちの施設
であることに不穏なものを感じるのです。
かれらがそこにいる子どもたちを指して
「弱い」存在であるとみなしていることに
すこしばかり危ういものを覚える。
わたしの体験からいうと、おそらく、脳性マヒや精神
障害の子どもたちがもし口を利けたら
わたしたちは弱い存在なんかじゃないです!
全員総立ちでノーをつきつけるはずだと想像できるからです。
わたしも孤児擁護施設にあずけられたことがありますが、
多くの仲間というのかな、同じ境遇のやつらがバタバタ死んで
いきました。
わたし自身も六歳のときに急性盲腸炎で死ぬ寸前までいった。
脳腫瘍であることがわからなくて風邪だということで寝込んでいた子は
天使のようなやさしい表情で死んでいったし、
ガリ公というあだ名のやつは、一度栄養失調になると治らなくて
中学を出るまでずっと骸骨みたいにやせていました。
(栄養失調というのは一度かかると中々もとに戻らないらしい)
でも50名ほどいた収容児童のだれ一人として、じぶんが
弱い存在だなんて思っていなかったことは断言できます。
運が悪い(存在だ)と思っていたやつは多くいただろうし、
お母さんがいないのが腹が立つと泣いた子もいましたが、
「弱い存在」だなんてまったくだれも感じていませんでしたね。
わたしも、社会的には運のない損な境遇にあることはわかっても
「弱い存在」だなんて毛ほども感じたことはありませんでした。
もちろんその逆の「強い存在」とも思ったこともなく、
いずれにせよ「弱い」「強い」などというカテゴリーがわたし
たちの意識の埒外のものであったことは確かです。
だって当たり前のことでしょう? 存在性に上下強弱価値無価値が
ありますか? 天上天下唯我独尊です。だれにとっても本人の
存在そのものが尊いのです。
不思議に思うのですが、
高橋源一郎らは、なぜ脳性マヒや精神障害者施設の子らを「弱い存
在」と規定したのでしょうか。
存在に「弱い」も「強い」もないことは、あたりまえのことです。
存在性じゃなくて、社会的に恵まれない境遇にあるから社会的に「弱い」
ということならわかります
しかしそれなら社会的なアプローチの手法をとるべきなのに、
なぜか哲学的、思想的に彼らに近づこうとしている。
はやい話が、彼らが出来る範囲で有り金を施設に置いていけばいのです。
あるいは無償の労働を提供すればいい。炊事洗濯掃除。よほど子どもたち
から感謝される。
ところが社会的に恵まれない、社会的な範疇での「弱者」でしかないのに
子どもたちの存在自体が「弱者」とみなし思想的、哲学的に近づこうとして
いるこの二人、
これがわたしにはとうてい理解できない。
なぜ「強い存在」である自らは研究の対象外なんでしょう?
おそらくそんなこと(「強い存在」である意識)は前提であり当然すぎるほど
あたりまえのことだから自覚されず胸の奥にしまわれているのでしょう。
わたしがこの本を手にとってなぜ震えを覚えたかというと彼らが
「弱者」として規定する対象をピンセットでつまみあげて
観察研究するその「強者」の手つきがおぞましいからです。
高橋源一郎のメガネをかけたカマキリ顔が恐怖を呼び起こしました。
高橋源一郎も辻信一もさあ、
きみたちが「研究」対象にしている子どもたちが、きみたちに
どれほど恐怖を覚えているかわかっているのかな?
お決まりのように脳性麻痺の子たちの笑顔のアップ写真が共著本にはさまれ
ているけど、かれらの意志なのかい? もちろん、彼らは写真撮影を拒否
することもできなければ、二人の共著に写真がアップされることの是非を
訴えることもできない。
そして当然のようにきみたちは子どもたちの意志などまったく考慮していない。
もし「弱さ」があるとすればこれが子どもたちの「弱さ」だろう。
そしてその「弱さ」はきみたちがきみたちで作り出したものなんだ。
無力な存在に対して、強者によるこのような偽善はかつて顧みられることは
なかった。なぜなら、彼らはきみたちが好きな「不能」だし「弱い」し
「勝てない」から。
わたしがいわゆる昨今の「サヨクリベラル」の言説に吐き気がするほど凶悪で
犯罪的なものを感じるのはかれらのこのようなところが
共通するものがあるからなのかもしれない。
この本は結局、最後まで彼らのいう"「弱者の共同体」"の賛美で終わって
いる。「弱者の共同体」というのは脳性マヒ施設や精神障害児施設、あるいは
重症身障者の介護職員、スタッフのことで、頭から尻尾まで彼らの
「弱さに対する感受性能力」の豊かさへ、手放しの称賛がつづく。
そしてなにやらキリスト教的な倫理的説教、シューマッハのような言葉が
開陳されるのだが、どこにも脳性マヒなら脳性マヒ、精神障害児童なら
精神障害児童の心やことばに耳を傾けた話がない。かれらの意識を汲み
とろうとした代弁の声がない。
辻 :芸術は、本来は非生産的で非経済的だから。
高橋:そう。現代美術とか現代音楽とか、ほとんど弱者そのもの。
こんなことを平気で語っている。
詩や絵画や音楽の創造と表現は「個人幻想」だからもともとから
経済(共同幻想)とは関係がない。
まったく関係ないステージの違うものをくっつけて語っていることが
どうしてわからないのか?
辻:でも、無駄や「弱さ」は人間の本質的な部分ですからね。
「無駄」も「弱さ」も人間の本質的な部分ではない。
かってに強者の論理で比較するからそうなるだけで個人幻想の表現や
創造はそのような規定とは何の関係もないことだ。
それにしても、
こんな愚かで無意味なことを語る連中が脳性マヒの子や精神障害児童を
囲って何やら一方的に強者の論理で語ることにおぞましい、
ほとんど凍りつくような恐怖を覚える。
これは、最近の日本サヨクリベラルたちの凶暴な
独善性と重なるところがあるのではないかとわたしは睨んでいるのですが
さてどうなるんでしょう。
いやあ、それにしても高橋源一郎のメガネをかけたカマキリ顔、
怖い、怖い。
それにしてもだれだ、こんなやつを中也賞の選考委員にしたのは。
島田なにがしというクズ小説家を芥川賞の選考委員にしたのも無茶だが
こいつもどうしょうもない。
「結局、現代詩は暗喩じゃん!」というくらいに物事を単純化していく
その思考の在り方が怖くてぞっとする。
「ところが、言語というものは、形・音・義、つまり、文字という形と音声と意味の三要素から成っているわけで、意味伝達を主眼とする散文に対して、詩は形象と音声にも深く関わっています。」(城戸朱里)
城戸朱里はバカじゃない。
(つづく)
(つづく)