私の仮想敵、西野亮庵氏と、私の現代嫌いについて
鏡文志
今日もパソコン画面を相手に、老いた老人のように腰を歪め、片手でマウスを弄りながら、画面を物珍しそうに眺める猿のような私がいる。
ネット詩は個人主義の時代を象徴する独白のようで、その組織力不在の表現に、欧米化されていった日本を思う。
私は友達がいないから仕方なく、一人で安く出来る詩表現に甘んじているのであって、プロフィールに記載してあるように本当は、組織で作品を作ることに憧れているのだ。
良い組織というのが見つからない。どこへいってもリーダーに不満がある。
多くの団体のリーダーは、組織力を重視した協調性を持っている人間を立てない。個人で勝手に力を発揮している人間を立てて贔屓にしてしまう。昔でいう、いかりや長介氏や、赤塚不二夫先生のような聞き上手で集団を上手く使い、回していくリーダーになる資質を持った人間を可愛がる傾向が見られない。
芸人の世界では、西野亮庵氏がそうだ。
彼の
「俺は今上手いこと言った。この発想ドヤ! ここで最高のアドリブ捻り出す俺ドヤ!」
実業家としても商才に長け、超絶技巧の持ち主として上手な絵なんか描いて、映画まで作った彼。
私は芸人がプライド振りかざしてドヤ顔したり、他人を見下している姿を世の劣化と受け止める。
芸人はインポを笑うぐらいでなければいけない。セフレ何百人とか自慢したり、性的能力の高さを自慢して、俺いけてますけーん、と世を馬鹿にしている彼を甘やかしている世間が悲しい。
オリエンタルラジオの中田敦彦氏も苦手だ。
「貯金箱の中に忍び込む。お金が空から降ってくる。武勇伝武勇伝デンデンデデンデン」
ダチョウ倶楽部には、特別飛躍した発想のネタはない。おでんをほっぺにかけたら熱いけど、それが見てて面白いでしょのような、すいません俺たちこんなことしか出来ませんという姿に哀愁があった。詩とかでも、このキラーフレーズ考えた私ってどう? みたいな人いると思いませんか? 心に響くフレーズは読み手が選ぶから良いんで、書き手が狙って入れ込むのはあざとくないか?
俺たちは凄い。高学歴だ。そういう人が増えてそれを真面目に崇めてしまったりする人が増えた。世も末だ。僕に行き場はない。
西野や今のテレビ演芸世の中のダメさの一つにアドリブ重視を超えたアドリブの放置、シナリオの軽視がある。思いつきや行き当たりばったり、その本来なら危険な賭けのようなプレイを、面白きとしての必須条件とばかりに、優れたシナリオもなく、やってしまう芸人と、それを真似する素人。
赤塚先生が『天才バカボン』で漫画の世界に持ち込んだ悪ふざけとも言える破茶滅茶は、きちんと計算があって、起承転結が出来て、綺麗に話を纏められる人間だからこそ、美しく輝く。今の勢いとノリに頼るイケている笑いに、大衆がいつか疲れ、飽きる時が来たら、きちんと台本に支えられた紙芝居演芸のような世界で私も輝きたい。アドリブは個人の頭脳に頼るため私はあまり好きではない。台本は打ち合わせがあり、その組織の集合体としての作品だから、それをきっちり守る協調精神のある人の方が、私は好きだ。
今の『この発想ドヤ』的なファンタジスタ的得意顔の飛躍的作品は苦手な私ですが、赤塚不二夫先生や良くできたSF作品などにある話の飛躍には惹かれる。そこには見たこともないものを見たいという純粋な動機があり、虚栄心が勝っている故の、道理への反発と逸脱のような不良的態度とは一線を画するものがあった。
今考えているのは、名詞と動詞、受動詞、他動詞などの意外な組み合わせの妙で、ユーモア作品を作ろうかと思っている。
「笑顔を、笑う。幸福が二倍になって帰ってくる」
「牛乳の中にスーツとネクタイをつけたまま、入る。私は融けてネクタイだけ会社に向かう」
「音楽をナイフとフォークでくり抜く。とびきりのワインの登場だ」
「才能も雨に降られ、凡人として都に輝く」
まだ実験中のため、アレンジが足りない。それに動詞、受動詞、他動詞を混ぜこぜにするより、順番に並べるか、動詞一つにした方が綺麗な気もする。二番目のは、それが牛乳である必然性が見つからない。なんとなく思いついたという爪の甘さがある。三番目がまずまずで、他はよく考えたら全然鈍い。ダメなものダメな芸を見せて、それをどこがダメか批評しながら語り、理屈を披露する。そういうのを集団でやってみるのも面白いな。
嗚呼、どうしても集団に憧れてしまう。なのに私の周りには個人主義者、ゲーマー、アイドルヲタクばっかり! 現代が大嫌いだ。竹馬の友がいた時代に帰りたい。みんな自分が良ければそれで良いのかあ。