詩的でない話。科学者は観察していることがとにかく楽しい
鏡文志

自分は詩人としてあいたみつをみたいなポップアーティストになりたいと書いたことがあります。
今思うと誰かになりたいとか、なにかみたいになりたいとか、そういうことでもなかった気がするのです。
例えば性の話で言えば、本当にそういうことが好きな人は触ったり触れたりすることで自分の性欲を満たすことで満足を得るのだと思うのです。
私の場合、触れた後どう自分が変わるのだろうとか、その興味本位が強い。
歌でも詩でも放ったものを突き放してみて、反応が薄いと実験の結果を見るような思いで冷静になっていることがある。
作品を放ち、人気が出ない。するとポップアーティストになりたいような人は人気が出ないと慌てるのかも知れない。
僕は書いたものを相手が見る。その反応が結果がどうあれ興味深い。
一時期私が好きだったお笑いにもそう言った実験精神がありました。
青島幸男氏が子供に大金を渡して車を買わせて、その様子を影でみる。そこで慌てている店員の様子などをみて楽しむ感じ。それは凄くわかる。
モテなきゃいけない、受けなきゃいけない、人気が出なければいけない。そういう理屈は、合理性を考えればわかるのですが、それそのものが目的かというと実は違う。そこに自分の表現者としての限界がある。
モテた方が好かれた方が人気があった方が自分のやりたいことに投資してしてくれる人が増える。そのための人気狙いでやっていると、愛されることにも限界があるのかも知れません。
しかし、愛されたくないとか、好かれたくないとか、そういう冷たい気持ちではありませんよ。愛されて褒められると嬉しい。その感情は私もある。
お笑いが好きと以前からずっと言っていましたが、同時に日本人を話し下手にしたのもお笑いではないかと思っているのです。面白いことを言わなきゃいけないとか、そういう暗黙のルールがあると、会話から削がれていく言葉があるように思う。景気のいい会話しかしてはいけないのなら、落ち込んでいる時人と話しづらいでしょう。本当は自然な会話からほうっと出てくる面白さがいい。それは落語で言えばそういう部分を抽出しているところはあれど、その円周の自然的退屈さも落語は描いていると思うのです。そこがお笑いにない。
今は理屈がとにかく嫌われます。しかし、理屈がしっかりしていないと、背筋がピンと張った美しいフォームに作品がならないのです。それは筋が通ってない道理の歪んだものの醜さ。
「アートが理屈を超えない社会」
と桑田佳祐が歌ったのは、30年以上前のこと。理屈を超えてないアートよりは、理屈の方が楽しいから、コロナ以降私はどんどん理屈家になり、益々煙たがられる方向に行った。大瀧詠一も晩年は音楽家ではなく、音楽研究者になりましたが、理屈は確かに楽しい。それは科学的な視点がないと、理屈屋になりたいとは思わない。ことの成り立ちはあれこれでこれはこうこうでどうだからこうなっている。物事の構造を語っていく。理屈自体をアートに出来ないか? 講談のようなものにはそういうところがある。
人気のある人は女にモテていることが純粋に楽しいのだと思うし、その楽しめている感が女性にもウケる。少し冷めた目で見て白けている部分があると、中々これは理解されるまでに時間がかかるのかな。
スーパーに並ぶと惣菜が並ぶけど、食べたことのあるものなら買わなくても味が想像出来る。想像してわかるものを食べる必要はあまり感じないけれど、その客観視している自分が嫌なので、あえて欲望の中に自分を放り込むことで安心するのです。こうした方がいいんじゃないか? と言う着地点としてそうしている。
毎回同じものを食べて毎回美味しいと思えるのは幸せなんだと思うけれど、それは想像力がないのではないかな? と疑ってしまうことがある。結果がわかっているものを何故やる? とピカソが言いましたが、日常生活に当てはめて考えるとこの実験精神のない退屈さを送り続けた人間が安定の人生を送っているように思う。
安定や幸せなんてクソ喰らえと思う面があるので、別に成功しなくてもいいやと好きなことが出来てしまう。するといつの間にか落ちぶれた場所にいる。しかしそれを不幸と思わない自分がどこかにいるので、人々は私を見て変なやつと思うのだと思います。
中原中也みたいに若くして英雄的な死を遂げたい。それも架空設定でしかないのかも知れません。まだ別に生きてたっていい。つまりどうだっていいフリーダムの世界に私はどこかでいます。死後の世界も私は観察している。なにを? それを知るのも楽しみだ。


散文(批評随筆小説等) 詩的でない話。科学者は観察していることがとにかく楽しい Copyright 鏡文志 2024-12-21 18:00:10
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