金さんの最期
室町 礼

韓国語に山形弁があるかどうか知らないのですが、
(たぶんないでしょうけど)金さんの人相風体は
伴淳三郎、通称"伴淳"と呼ばれた喜劇役者にそっ
くりでした。木枯らしに立つ枯れ木のようにひょ
うひょうとして、そのせいか、せかず急がず、と
つとつと、煙突からのぼる煙のように話す彼の声
がわたしには伴淳が話す山形弁のように聞こえた
ものでした。
当時わたしは大阪西成区あいりん地区にある三角
公園近くのニ階建和風一軒家に住んでいました。
孤児擁護施設を出て天涯孤独のつもりが、母方の
系図に資産家がいて、ある日突然、裁判所が指定
する弁護士事務所からの分厚い手紙を受取りまし
た。そこには見たことも会ったこともない人物の
名前とそれに連なる親戚縁者の関係図が入った図
面が添付されおり、なにやら複雑で難解な法解釈
のようなものが説明されてわたしは何番目かの遺
産相続人にあたるということでした。かなりの遺
産の額──残された貯金通帳数冊分の金額も書か
れてありました。
藪から棒。青天の霹靂でした。わたしはその手紙
を握りしめてだれもいない部屋で「どうだ、ざま
あ見ろ!」と叫んだものです
それからニ年ほど相続権者たちとの間ですったも
んだがありましたが、結局、三年くらいのあい
だはいかほど贅沢三昧をしても困らないだけの現
金と資産を得ました。そのおかげで当時のわたし
はバイクに乗って日本中を旅する日々を満喫して
いたのでした。
ただ、わたしが住んでいた家はわたしの家ではな
く知り合いの喫茶店主、西という男が若宮正則と
いう人物から管理を任されていた住まいだったの
です。若宮正則氏が異国で亡くなってからは西か
らわたしがその家を任されておりました。
じつのところ金さんがどうしてわたしの家に住む
ようになったかその経緯はよく思い出せないので
す。というのは、わたしの家はだれであれ出入り
自由だったから基本、寝泊まりするところがない
人はだれでも勝手に入って、勝手に寝ることが出
来たからです。これはわたしの意志ではなくだれ
であれ来た人を拒まず寝泊まりさせるようにとい
うのが出国する前に若宮氏が西に託したことばだっ
たからです。わたしもそれを守っていました。噂
を聞きつけて月に一度ほど人が訪ねて来ましたが、
一見ホームレスや日雇い風の人はかってに泊まっ
てもらいました。わたしは二階に住んでいて、一
階に寝泊まりする人たちのことはまったく放任主
義でした。ですから金さんがいつから居着くよう
になったのか記憶にはないのです。

じつは金さんは天神橋の方に賃貸マンションを借
りていて一度一緒にそこを訪ねたことがあります。
ドアをあけて中に入るのに難儀しました。金さん
が大阪中から拾ってきたモノがあふれており部屋
に入るには宇宙遊泳みたいにもがきながら両手両
足を踊らせなければならなかったのです。もちろ
ん部屋に辿り着いても腰を下ろすこともできない。
「これどうするの?」と尋ねると「日本人ものを
粗末にしすぎる。もったいない。どんなものでも
利用できる」と金さんは皺の多い顔を梅干しのよ
うにしわらせてわたしにこんこんと説教しました。
入口周辺にはマンション住人が貼ったらしい抗議
の文面「廃品が廊下にあふれて困っています」が
多数貼られていたのはこれかとうなづけました。
それから大家からの家賃の督促状も何通か扉に挟
まっていました。仕方なく外で飲もうということ
になってマンションを降りると前の路地で六十前
後のおばさんとすれ違いました。金さんがおいと
声をかけて肩に触れようとしたところ初老の女性
は嫌なものを見たようにさっとすり抜けて去って
いったものです。金さんの話では十数年ぶりに顔
を合わせたという。昔、二人で心中でもするかと
思い詰めた仲だったらしい。すがりついて来たの
は彼女のほうだったというのですが、なるほど金
さん、きっぷがいいから若い頃はかなりモテたら
しい。廃品を溢れるほど集めて近所から迷惑顔を
される老人になるとは夢にも思わなかったのだろ
うか、おばさんはすっかり目が覚めたといわんば
かりの態度だった。恋というものは時間がたつと
儚いものである。しょうがないので天神橋筋にあ
る金さんお勧めの屋台で焼き鳥を食べて痛飲しま
した。もちろん金さんは一文なしだからお代を払
うのはいつもわたしでした。

金さんは戦前、出稼ぎのために日本に来て神戸の
造船所で働いていたのですが終戦直後に失職して、
その後いろいろ紆余曲折があって
ホームレスになったということでした。親族のい
ない韓国に帰るのをあきらめて異国に骨を埋める
については彼はひとつの趣味に生き甲斐を見出し
ていました。それはバクチ。つまり賭け事ですが、
バクチを打って打って打ちまくって死ぬというこ
とが最後に残された自分の仕事と考えているよう
でした。
わたしの家から歩いて数分のところに、三角公園
という小さな公園があるのですがそこは戦後から
時間が停まったようなところで今も日本で唯一、
公衆テレビが高台に設置されている場所でもあり、
その下でホームレスや日雇い労働者、失業者、は
ぐれ者たちが粗末な野天丁半(のでんちょうはん)
をやっているのです。
胴元は全国でも最低規模の博徒一家のその枝の枝
の枝あたりの近所のチンピラやくざで、みかん箱
を積み重ねて布団のシーツを敷き、その上にサイ
コロを転がせていました。そこにマルクスのいう
ルンペン・プロレタリアートたちが群がっている。
そういう賭場が三角公園のあちこちで開かれてお
り、金さんはこの粗末な丁半バクチに打ち興じて
いました。そのために近くて便利なわたしの家に
転がり込んでいたのかもしれないのですが、その
頃は懐具合がすっからかんになっていたらしく、
バクチはやめて一日中、さまざまなバイトのネタ
を探して小銭を稼ぐ日々のようでした。

たとえば金さんは朝早く、古ぼけた自転車をこい
で大阪中央市場へ行くのです。
メロンでも西瓜でもちょっと割れてしまったよう
なものは捨てられて、野菜や果物などから出たゴ
ミといっしょに山のようにうづたかくつまれてい
るのですが、メロンなどは裂けたところを外して、
皮を剥いてそろえれば、見た目には高価なスィー
ツになります。
金さんはそういう果物を拾ってきて、西成区の有
名な博徒の親分が開く賭場へもっていくのです。
剽軽な金さんがひょこひょことやってきても、子
分たちは何もいわずに通します。金さんが出入り
していた博徒一家が保有するビルはいつも賭博を
開いていることで有名な場所でしたが金さんはそ
の韓国人の親分とは同郷のよしみで可愛がっても
らっていたようです。拾ってきたメロンを切りそ
ろえて出すと、それが拾いものとは知らない親分
は「おう、ご苦労さんやな」と気前よく金さんに
小遣いをはずむのでした。
あるとき金さんはびっこを引いて帰ってきました。
近くの路上でヤクザ風の連中が乗る高級車に自転
車が当たったという。金さんが荷台に過剰な荷物
を積んでいつもよろよろ走っているのをみて危な
いなあと思っていたのですが、とうとうやらかし
たかと思いました。多分、金さんにも幾らか非が
あるのではないかと想像したのです。ところが男
たちは警察沙汰を回避したい事情があったのか金
さんに三万円也をさっと渡すとそのまま走り去っ
たというのです。
悪い予感が走りました。案の定、しばらくすると
金さんは松葉杖をついて帰ってきました。今度は
びっこどころか大怪我です。自動車との接触事故
でした。町内会長をしている自転車屋のおやじさ
んが金さんの代理人になって治療費や慰謝料を運
転者から取り立ててくれたのですが、金さんが喜
んだのいうまでもありません。公園でバクチ三昧
の日が続きました。
ところがそれから半年もすると突然、歩けなくな
って寝込んでしまったのです。事故の後遺症かも
しれないと思いました。わたしは初めて高齢者を
介護する立場になりました。最初はたかをくくっ
ていたのですがこれが大変でした。トイレへゆく
にもわたしが支えていかなければならない。一つ
間違うと部屋も布団もうんちまみれ。覚悟のない
わたしごときに老人の介護なんかつとまるわけが
ありません。わずか二日で音をあげました。市役
所保護課にいる知り合いの職員に電話すると、す
ぐに救急車を呼んでくれていっしょに病院まで付
き添ってくれました。金さんを病院に入れてしま
ったことについては正直いっていまでも後ろめた
い気持ちがしています。
金さんは半年ほどして無事退院し、役所が借りて
くれたアパートに住んでいました。一度だけ訪ね
たことがありますが元気でした。ただ、わたしに
金さんを介護できなかったことがわだかまってい
たのか、なんとなく付き合いが疎遠になりました。
その後、しばらくして風の頼りに金さんが亡くな
ったことを知ったのですが公園の丁半ばくちで賭
け金が払えずやくざにリンチを受けて死んだとい
うことでした。
ひどい話ですが金さんらしい最期だと思いました。
わたしが金さんのことを思い出すときにいつも浮
かんでくる言葉があります。いつだったか聞きづ
らいことだけど、意を決して尋ねたことがありま
した。それは日本による朝鮮支配のことでした。
金さんは他人におもねることがない人でした。間
髪も入れずこう答えました。
「死んだ赤子の歳を数えてもしょうがない」
意外な返答にわたしが戸惑っているとこう続けま
した。
「立場が替われば韓国だってやっている」
金さんは終戦直後、悪い仲間と大阪工廠に鉄くず
を盗みに入り当時管理していた米軍に逮捕されて
大阪刑務所に入ってたことがあると言っていまし
た。そこで金髪の神父から洗礼を受けた話を事細
かく話してくれたことがあります。わたしは生涯、
神の道を.....だったか。イエスの愛をだったかを
信じて歩むのですといつも口にしていました。意
外な答えを聴いて金さんが刑務所で洗礼を受けキ
リストに帰依したというのはほんとうだったんだ
なと納得したものでした。
わたしは金さんのことばに甘えたわけではありま
せん。だれがやっただのやられただのと表面的な
ことで騒ぐのではなく本当に責任を感じているの
なら戦争や植民地支配が起きる大元の原因を究明
しろ!と叱咤されたと思っているのです。こと政
治に関しては金さんのそういう態度を胸にして生
きてきたと思っています。




散文(批評随筆小説等) 金さんの最期 Copyright 室町 礼 2024-12-08 08:20:32
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