だからわたしは殴られる
室町 礼
子どもの頃、不満だったのは
土地の私有状態にだれも疑問を持たないことだった。
もともと全人類の共有財産である土地がなぜ
特定の人間に私有されているのか。
孤児だったからそう考えたのかもしれないが
おかしいじゃないかと思い続けていた。
そこで『共産党宣言』を読んでみた。
よくわからないが共産党である。天下の共産党なら
当然土地の私有を否定してくれると思った。
意外なことに土地の私有は否定されていなかった。
財産の私有も否定されていなかった。
エンゲルスやマルクスにとって社会化の対象となるのは
「生産手段」だけであるという。
「生活手段については、私有財産として生産者自身のもの
になる権利が保障される。」(マルクス『資本論』第1部617p)
この「生産手段」と「生活手段」という腑分けがよくわからない。
生産と生活をこんな風に分けられるの?と思った。
そりゃ言葉では分けられる。言葉は現実の事象やモノをいくらでも
意味として細分化できる。意味を限りなく分節できる。
でも、それによってわたしたちは事実を見失うことはないのだろうか?
「生産手段」というのは田畑とかそれを耕す鍬(くわ)や犂(すき)などのことでしょうね。
耕すための人力(労働)も入っているのでしょう。
漁師なら舟、竿、釣り針、ランプなどかな。同じく人力は必須だ。
「生活手段」とは耕した田畑から生じた米。それを煮炊きする釜、水、火力でしょう。
これにも労働は当然必要です。
これ、分ける必要あるのでしょうか。そもそも土地の私有認めてるのだから最初から
「生産手段の社会化」になってないし、「生活手段」の米や釜や水だって私有する者から
買わなければならないから、マルクスの共産主義とか最初からデタラメじゃないかと
首をひねった。
一番底の底のところで詐欺じゃないか。知らんけど。
資本主義社会の行き先を予測すれば、当然資本は一箇所に凝縮してゆき
極端な賃金格差社会が生じるはずだ。
資本は資本を呼び、結果、一私人に資本が収斂(しゅうれん)していくわけだ。
そうなると悲惨な格差社会が到来し、資本を独占する数名の資産家が
世界を独占支配することになる。
そうなることはマルクスやエンゲルスのような頭のいい人ならわかっていたはずだ。
共産党宣言は土地の私有を否定すべきだった。
そして労働報酬の上限を設けなければならなかったはずである。
今、わたしが世界の支配者なら労働報酬の上限をざっと月額一億円にするでしょうね。
年収12億。
これが個人収入の上限とする。
株で儲けようが、PCソフト開発で儲けようが、運転手だろうが、
社長も肉体労働者も労働報酬の最高額は月額一億円、残りは国庫に没収、国民に分配。
そうすればマネーパワーによる大衆の奴隷化や資本をめぐる戦争も起こりえない。
格差社会も戦争もない。戦争は資本の収奪をめぐる争いが根底にあるから。
マルクスが真に大衆庶民の味方ならそんなことは理論的にわかっていたことでしょう。
ところが共産党宣言を読むと、土地の私有を認め、財産の私有を認めておきながら
個人報酬の上限を設けるような話はどこにもなかった。
社会主義は個人の利益なしにはありえない。いな、社会主義
社会になってはじめて、個人の利益がもっとも完全にみたさ
れるのである。そればかりでなく、社会主義社会のみが 個人
の利益をしっかり保護することが出来るのである。
『英国作家H・G・ウェルズとの対話』(スターリン)
個人の利益の死守。
中国などは今もそうである。
個人の利益の保護とは要するに資本家の利益保護だから、
これじゃ何の意味もないじゃないか。共産主義は資本主義とかわらない。
わたしは共産党の思想に疑念を覚えた。
要するに共産主義思想とはユダヤ人たちが考え出した新しい人類支配形態の
ひとつではないかとおもった。
しかしこう反論する人もいるだろう。
きみのいうように報酬の上限を設けるような社会では人間が互いに切磋琢磨する
競争社会が生まれないから人類の発展が阻害されるだろう。きみのいうような制度では
今頃、世界はまだ田畑を耕す封建社会だったかもしれないよ。
そうだろうか? 月一億でもまだ不満を漏らす人がいるのだろうか?
それに、
人類はそんなに急いで発達発展する必要はない。
人間は自然の流れに抵抗する存在なのです。歴史の必然に抗うことが出来る
唯一無二の生き物、生命なのです。
マルクスの最高傑作は彼の「自然哲学」だといわれています。
人間は,自然において, 自然との物質代謝によって, しかも目
的意識的に自然を作り変えることによって,自己を形成しつつ生
きる存在である。 しかも人間に とってこれ以外のあり方はそも
そもがありえない。このようなものとしての人間を人間たらしめ
ているのが,労働である。(『経済学・哲学草稿』)
人間を人間たらしめているものが労働である!
労働はうつくしい。労働は生命の根源だ。労働に感謝!
彼の自然哲学が間違っているというのではない。おそらく万有引力と同じように
確固たる、抗いようのない真実でしょう。
労働なしには何も生まれない。
問題はその哲学が正しいとしても
人間はその正しさにどういう姿勢を持つかです。
人間はある絶対的真理にそのまま呑まれる存在であってはいけない。
どこまでもその自然の真実に抵抗する、抵抗することで人間が人間になっていく、
そういう存在であるべきだと思うのです。
土地の私有の廃止。
報酬の上限の法定化。
それを語らない共産主義や社会主義思想はデタラメであると思うのですが
ああ、こんなことをいうからわたしは殴られるのだな。
中学卒業をまじかにして就職しなければならなくなったとき、
施設の先生とにこやかに将来の話をしていたのですが、ついうっかり
本音をもらしてしまった。
「人間はどうして働かなければならないんですか」
その口調には他人の為に働いて相手に富を与えることへの不満が色濃く
滲み出ていたのかもしれない。
先生は僧侶だった。そのときたまたま拍子木を手にもっていた。
まるで条件反射のように寸秒の差もなかった。
その拍子木で思い切り頭を叩かれていた。