読解の妥当性について
おまる

文章は、大衆の反応や歴史的評価によって解釈が左右される。

単に読者に与える印象や感情だけでなく、扱うテーマや問題が現実で取り上げられたり、社会や文化に予想をはるかに超えたインパクトを与えたりすることもある。

たとえば、時事で社会問題を取り扱ったり、政治的なメッセージを伝えたりする場合、インターネット以降、その人々へ与える影響の規模は計り知れない。もっとも、そのようにして一度確定した、広義にいって「社会的な」解釈も、時間が経過すると、まるで違うものになるかもしれない。また、長い時間が経過すると、より公平な解釈が出来る可能性が高まるのは、明白だ。

一方で、文章自体が生み出す現実「テクスト的現実」(by 蓮實重彦)というものも、やはり存在するのだが(ちなみに、その文章の是非を問う評論や、二次創作などの大半は前記の側に属するものであるはずだ)、この文章そのものが生み出す「現実」とは何か?

すなわち、歴史的に確定された解釈と、学術的に導かれた解釈とが、大きく食い違う場合がある、ということ。言い換えれば、歴史的にいったんは確定した解釈と、文章そのものから導き出されるべき解釈とに、重大な齟齬が存在すること、そのものを指している。

このことについては、ウィキペディアを考えるとよいだろう。ウィキペディアは、出版業界、学者たちからはバカにされている。ことに人文、芸術全般においては、この傾向は甚だしい。のみならず、一般の人々や学生たちのあいだでも、「ウィキペディアを真に受けるのは○○」と考える人は少なくない。しばしばそれは「創作物」に過ぎないとみなされている。

しかしながら、そのような意地の悪い見方をフェアとは、けっして言わないのではないか?というのが、少なくともわたしの立場である。自由で開かれた情報発信の場でおこなわれた(”大衆の受容”をもっとも濃縮した形としての)「解釈」が「間違い」だと、誰が断言できるというのだろう?…わたしは、解釈の妥当性も、テクストに内在する自明なものなどではなく、読者たち(そこに作者も加われば僥倖だ)が「つくる」ものだと考える。

かかる対立も、文章を書くこと、読むことの二義性の問題に起因している。すなわち、二義のどちらの側につくか?ということ。


散文(批評随筆小説等) 読解の妥当性について Copyright おまる 2024-11-02 07:34:50
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