ナレーション魂①
鏡文志
吉田拓郎は『今はまだ人生を語らず』と歌った。
未だ未熟者が人生を語るのはみっともないという考え方がある。
批評家と言われる類の表現者の多くは、人生を語らずに詩を語る。映画を語る。音楽を語る。なにか批評する対象物を語る。それぞれの専門ジャンルを語ることを生業としている。
日々生きてきてなにか分からない漫然とした判然としないものに納得出来る物語が欲しい。
私の場合は、ナレーション力のようなものを批評家であり、表現者に期待し託していたところがある。
しかし、彼らの多くはコロナ禍を契機に急速にその力を劣化させていった。
考えてみれば劣化したと思う人の多くは人生を語る人たちではなかった。
音楽を語る専門であり、お笑いを語る専門であり、なにかを語る専門のナレーターは全体を俯瞰して語るということをしないため、全体像が掴めないまま偏りのある語り手であることに終始していくものなのかも知れない。
しかし、淀川長治であり、チャップリンであり、立川談志はどうか?
映画を語りながら、落語を語りながら、ありとあらゆる全体を語ろうとしていたではないか?
渋谷陽一は音楽の批評家だ。ピーターバラカンは、音楽批評家という言葉を嫌い、自身に合う形容としてブロードキャスターの肩書きを好む。田舎のローカルでは、受信出来る放送局に限りがあり、NHK-FMは貴重な全国放送を聴ける音楽チャンネル。などというととてもネットで多くを聞ける今の時代にとても時代遅れの話をしているようだが、アナログなライフスタイルに慣れていた私にとってはそうだった。
それで渋谷さんの『ワールドロックナウ』ピーターバラカンの『ウィークエンドサンシャイン』などをコロナ前まではよく聞いていたが、このメディアはコロナを契機に急速に時代遅れのメディアとして劣化していったと思う。
コロナ報道への盲信と、押し黙り追従するDJ達。国が推進する感染対策の科学的な正しさも、少数派の学者勢にその誤りを指摘され、それを権威側が完全に無視。この反論なき無視が私のような少数派の疑惑と不信を買い、嗚呼、こいつら嘘をついているんだ。それどころかずっとずっと僕は、マスコミやメディアというものに騙され続けていたんだと不信感を深める結果になった。コロナワクチンで多くの人がお亡くなりになっている。
この事実は、厚生労働省のHPで公式に公表されており、その事実を何故コロナで打撃を受けたり、関心を示してきたDJは目を瞑り、黙認し続けるのか? SNSで少し調べればわかるものをジャーナリズムの第一線者が、何故自分の目で調べ、確かめようともしないのか? そこで渋谷陽一やピーターバラカンを聞いても世の中の全体像は掴めず、偏りのあるものとしてためにならないことに気づいた。確かに音楽を紹介するチャンネルとしてそれ以上のことを期待しないという言い分はわからなくもないが、我々は常に全体の中を生きる部分の一つ一つであり、全体を無視して部分のみを語るメディアに触れ続けても、脳が偏りを生むということにどこかで気づき始めた。
大瀧詠一は音楽だけを語っただろうか? 確かに音楽についてのみを語っていたかも知れないが、音楽を通じて全体像を見渡すような、もっと深く広い視野を持っていたからこそ、生半可な社会的運動に自分も乗ることはしなかったのではないだろうか?
専門職というものを否定はしない。グレンキャンベルや、トムジョーンズは、ベトナム戦争が起きようが、政治的社会的な問題に覆われている時代においても、愛の歌だけを歌う。それが悪いとは言わないけれども、公というものに携わり、そこで大衆に影響力を持つ人間としてはどうなんだろう? 才に恵まれ、それを活かし追求していきたいと思う。愛の歌を歌うのが上手ければ、それだけを追求していきたい。しかしそれでも私は疑問符を持っている表現者に注目してしまう。トムジョーンズも好きだし、グレンキャンベルも好きだけれども、そう言ったものがメインで公共の電波が覆い尽くされ、国民は権力者がおかしなことをやっていた時にそれを常に監視し続けていなければならないと言う国民義務に答えるカウンター機能としての表現が電波から阻害されていくことには全く感心しない。
私は詩を書いている。このサイトでも詩人と名乗って、詩を発表し掲載させて頂いている。拙い詩だ。技巧的でイマジネーションに富み、誰にとっても糧となりためになるようなものは書けていないと思う。時間の無駄と言われればそれまでだ。詩と言う形式フォーマットに内容を合わせ、落とし込む。その必然性が見えないことがある。それを鋭くつかれる。どうしよう? どう返信しよう? とても困る。相手の納得し難い返信をしてしまう。誠実は伝わっただろうか? あれこれ考えると辛いし、疲れる。まるでボクシングの右パンチ左パンチに必死で防御をするように、身を守りながら返信する。鋭い批評家達。一般の人だってそれなりに自分たちの見識の中で他人を批評しているのだ。詩人を志している人もその一般者と基本は変わらない。直感があり、それをどう表すかと言う表現力において、文章を書き慣れていない人より長けているに過ぎない。そこで折れて参りましたと根をあげるか? より強靭な作品を作りそれを活かしたと納得させられるか? 私はいくつかの作品で他のサイトにおいて物議を醸す作品を書いた。曰く『つまらない。つまらな過ぎる』『優秀者の集まるサイト上において、最低限の内容に達していない』
私には人生と言えるほどのものがない。語るに足らない人生であり、全部頭の中の妄想と遊びだけの人生だ。実際経験における人生は存在せず、女性経験も極端に少ない。初めて女の味を知ったのはつい去年のこと。夜の街を遊び回っていた。それも充分ではなく、直ぐに色々な経緯があり、逮捕され拘置所に入れられた後、精神病院送り。そしてグループホームにて行動を管理制限された中で、それ以前より更なる不評を買う作品を書いている。外に出歩けない。体験が出来ないのだ。当然アイデアも乏しくなる。過去作品過去の経歴に縋る。自慢話。酸っぱい葡萄は勘弁してくれなどと評され、そこにイイねがつけられる。私は終わった人間ではなく、始まることが出来ず、始まることが許されていない存在なのだ。
精神病院の強制入院。あの悲劇は、私が14歳の頃の始まった。私の家族は病んでいる。長兄は幼い頃から病気持ちで社会に馴染めず、それより更に馴染めない私をいたぶる。両親は最初怒っていたが、自分たちが病気にした世間的後ろめたさから徐々にそれを黙認。加担さえするように。父親は頭のいかれた左翼で、母親も世間主義のヒステリッククレイジーママ。救いようのない家庭に一人だけ全体を俯瞰し、見ている私と言う人間が生まれた。ナレーション力を持った不思議な子供。幼い頃から不思議と言われ可愛がられる。そこにはいじめのような、可愛がりも含まれ、愛情といたぶりの両方を受けて育つ。私の身の上話を聞いて人々が釈然としないのは、私が自身の上に起きた不幸をケロンとした顔で語るからかも知れない。冷静に正しく語ろうと努める。その健康美を含んだものは、不幸者の姿に相応しくない。すると同情は生まれない。味方もつかない。このサイトにあげている作品の内容にも表れている通り、私の多くの自嘲話は、そこに健康美を含んだものであり、そこにはっきりとした被害者性は認められづらく、第一にその人生を選ばざるを得なかった私が根を上げない以上
「貴方は、その不幸に我慢し耐えているじゃないか? 偉いよ」
と言った遠目の尊敬を買うのがオチだ。
「この豊かな恵まれた国に不幸者など存在しない。甘えるな」
そう言う人もいるだろう。被害者だ不幸だ、それが認められて、身の潔白が証明されれば、自分がどうして女性経験が少ない人生を過ごしたのか? 友達や恋人に囲まれ、幸せと言える人生を選べなかったのか? と言うところに人格的問題に起因する内容をあげつらねられて非難の目を浴びることから逃れられるのではないか? 私にはそう言う望みがある。社会的失敗者に対する人々の目は厳しい。なにを言ってもなにをやっても、論理の穴を突かれ、そこに人格的問題を指摘されてしまう。私は多くの成功者とスタートラインが違かったのだ。そう主張し、認めれらたい思いがある。人間的素質に関しては、機会を与えられれば与えられるほど、羽を伸ばし、評価されてきた経歴だってある。結局自分にどこかで質内容に自信があるのだが、それが自慢話にしか聞こえず、嫌味でしかないのだと思う。
私の着ている服は幼少時代相当ダサかった。私の髪型もまるで女の子の髪型だった。おかっぱ頭。漫画『まことちゃん』の主人公澤田まことにそっくりだ。私が近所で最初に遊んだ友達は、近所で最も人気のない女性だった。それらは私が自分で選んだものではなく、母や父親が私に相応しいものと思ってか与え、選んだ環境に振り回された結果である。私は多くを自分で選べず、選ぶことが許されなかった。何故選べなかったかといえば、私が三男坊に生まれ、一番身分下の立場であったことに多く起因している。長男はとてつもなく馬鹿だったが、兄弟の中で一番発言権、行動権が認められていた。こいつがとてつもないクソ野郎だった。私をいたぶり続けた挙句、私が抵抗してパソコンを壊し、自分が悪くもないのに警察に連れて行かれた時、泣いていたそうだ。
「○○が行っちまったよ~」
と。このパラノイア。自分が原因発端で悪くもない私が警察に連れて行かれたことに対し、どういう思いでこの言葉を発し泣き喚いたと言うのだろう。狂っている。私は罪に問えない内容のため警察に連れて行かれ、精神病院へ。以後精神障害者として養護学校の後、事業所へ通い続ける羽目に。私が女性経験が少ないのは、下らない国のガイドラインに素直に従い、事業所で真面目に作業従事し続けていたからだ。バイトの方がいい。給料だって違う。事業所は月に良くてどこも2万円。B型に関してはそうだ。A型でさえ、月良くて二十万。しかし、薬漬けのリスクからはどちらも逃れられない。年金貰ってんだから薬飲め。それが現実の社会の目だ。おかしい。順序が逆だ。病気で問題行動を起こすから薬を飲む必要がある。別に問題行動を起こしたって、刑務所に入って責任を取ればいい。私が刑務所に入るような犯罪を起こしたことは? ほとんど一回しかない。コンビニでおちんちんを晒した。病院役所から『仕事を見つけないと、入院させる』と脅されて、病院に入院させられずに刑務所に入るために。過剰性欲者をアピールすれば精神異常者として認められづらくなると思った。酒鬼薔薇聖叶という犯罪者が、逮捕後精神鑑定を受け、更生施設にて性欲を認められた時に、健全者と認められたと週刊誌で昔読んだ話が脳裏にあった。結果妄想過剰と判定されて、強引に入院させられた。サインをしたのは、いつもと同じ悪魔のような父親。しかし、病院や役所のこう言う脅しは法的にも問題があり、追求されると脅した方は困ると言う話も聞く。しかし、増長し続けると権力は好き放題やる。
「入院させるかも知れない」
未だに通院するたびに医者には、口にされる。
国の推進するガイドラインを守ったりハローワークへ行くより、バイト生活を送ってキャリア作りに専心していた方が私のような人間にはずっといい。福祉の世界には不良にもなりきれないような半端な社会的脱落者ばかり。気が合うわけがない。悪いことをやって刑務所に行く勇気もない。それで薬漬けの生活を送り、羊となりて、つまらない人生をすすんで選ぶ。だから話しても全然面白くないし、魅力に乏しい。低所得者の中でもハングリーな精神を持った人間はここにはいない。
私は社会的にどの立ち位置で、どのような言葉を放ち、語っているのだろう。思考は言葉によってなり、時にそれは乱れ飛ぶ。健全な脳味噌とそれを支える肉体が欲しい。
知的情報者としての私は
「なんでも知っているし、お話が上手である」
と褒められている。しかし、体験が禁じられている今現在においてその内容は更新されておらず、それがSNS内で発信する言葉に表れていることで、読者がイラつきを覚え、それを正直に口にするならば、それは正しいと認め、素直に非を認めるべきだろう。テレビを見る。もう時代内容にあっていない。見ている人が少ないし、つまらないことがわかった上で見ている人が半数だ。しかし、つまんなくてもいいと垂れ流しを許す人と自分が知的向上意識にかけて同質であるならば、そんな私が放つ言葉に人々が目を背けるのは致し方ないとさえ思う。
ネットフリックスに入会したいし、ゴーマニズム宣言チャンネルや、知的更新度の高いメディアに投資して、鮮度をあげ保ちたい。英会話教室にも通いたいし、ウクレレも習いたい。いつまでもここで行動管理され、制限される生活に疲れている。今日は一階の男性給食室に入った年下の女性入居者に
「上へ行け。ここは男の部屋だ。お前はつまらない。死ね!」
と怒鳴りつけた。スタッフは少し驚いていたようだが、こんなのはストレス発散の一端でしかない。一階の男性給食室に女性が入ることを禁止してはいないと説得されたのは随分前。それでも私はこの女性に怒鳴りつけたかった。理由はつまらないから。私がつまらない思いをしている。この女性にそれほど言動的問題はないかも知れない。知ったことか? 発散とはそう言うものだ。弱者をいじめ貶し汚すことは皆やっていること。それでいて私はこの女性が弱者だとはあまり思わない。家畜生活を選び受け入れ不満を訴えることもせず押し黙り、つまらなそうな顔で生きて、私への愛想もない。いずれ追求されるかも知れないが構うものか? 私にはリスクを回避し、成功者を選ぶことへの固執性がない。好きなだけ抵抗して、ダメだったらダメでいい。一種の発狂した喚き声としての言葉でしかないのかも知れない。
人と人がわかり合うにはどうすればいいか? 論理的づれをお互いに暴力に訴えることなく解決する手段として考案し、制作したテキストゲームがある。先ずテキストに片方が議題を書き、書いた後に自分の名前を書く。それを受けて、返信する相手が返信内容を書き、更に名前を書く。明文化し、自分の名前を入れることで、第三者を意識して自分たちの言葉にそれぞれ責任を持つ。書いている間、お互いにズルが発生しないよう、論理を純粋に突き詰められるよう、お互いに口で言葉を発さず、テキストに明文化される以外の言葉を入れないようにする。言葉は口に発して吐くことで空気に消え、そこに責任が発生するリスクは回避される。これは私がテレビを見て感じたことで、嘘だらけ言葉を許すのは活字媒体ではないからではないか? 新聞は活字媒体だが、記者の名前の多くは明記されず、バックナンバーを取り寄せようとしてもそれが出来ない。嘘情報を垂れ流しても、責任を持つ必要がないまま、過去の言葉は消えていく。それが書籍と言われるものの千倍以上、一日のうちに売れていき、次の日には忘れられていく。つまり責任を持って発される言葉の千倍以上の無責任な言葉に人々は踊らされていると言うこと。十万部しか売れない本は、編集者がいて、内容にチェックが入り、作者出版社の名前が記載されて、何十年も過去の言葉が残り続け、そこに作者出版社は責任を問われ続ける。SNS文章はどうか? これも好きな時に削除すれば大抵の一般ユーザーの書き込みへの責任は問われない。私がポエムサイトで書き込んだ内容のほぼすべては、なにか特別な利益を生むこともなく、責任も一時的に問われるのみで消えていくだろう。それでもその内容の責任者としての私の責任感は、人一倍重いものだ。それが理解されることはないかも知れないが、私が言葉への責任に人一倍敏感であることは、このテキストゲームを考案したことで理解されるかも知れない。
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携帯でやりとりする内容と、どう違うか? 先ずお互いに顔の見える中でやりとりすることの安心感が違う。パソコンや携帯でのやり取りだと、双方の見えない気遣いが論理を歪ませてしまう。顔が見えないことでお互いに余計な気遣いをしてしまい、その不安感から論理を歪ませてしまう。少なくとも私はそうだ。肉体性が置き去りにされないことで生まれる、安心感。何件目の論理と、何軒目の論理がずれていると指摘する時、紙媒体の方が見える化しやすいと思う。
しかし、多くの人はここに興味関心を示さなかった。正しいかどうか? と言う見識より、言葉は吐いて捨てるものであり人間は感情の生き物という論理と、勝ってなんぼ理解なんかしたって仕方ないという根っこの部分にある思いもあるのかも知れないな。結局そこまで正しいかどうかこだわりを持っている人なんかそれほど多いのか? という疑問があるのだ。しかしそれでも人々はお互いの正しさを主張して譲らない。それは思い通りにしたいという欲望があるからだ。そこで私は人々の説教や辛辣な言葉を鵜呑みにすることが浪費だと思ってしまう。結局どっかでみんないい加減だし、いい加減でない人間はみんな嫌なのに、嫌なものには理屈回避さえ辞さずに、あらゆる角度からダメを入れる。その言葉を間に受けるべきか? 反省は活かし、こうすれば次の態度は違うか? と期待し思考実験を繰り返しても、浪費に終わることが大半だ。
セオリーとして、仕事につくことが許されていないなら、許されている事業所に通い、許されるまで忍耐を重ねる。どの道私はなにかを始めたり、自分の人生に責任を取ることが許されていないのだから、そんな人間が発する書き物に価値などないのだ。価値を訴えると、自慢話化してしまうきらいがある。誇り高く語るものは、叩かれる。なにかを誇ることさえ許されない。と言って謙虚を気取る強かさも持ち合わせていない。バカなやつ。それが私である。
人生は漫談だ。これによって事物を理解する。ナレーション魂。しかしいつの間にか思考は詰まり、飛躍と乱れを許す。そして文脈から解放されることで、人は明るくなる。歌が素晴らしいのは、文脈から解放されること。賢さは文脈の世界に生きることだが、バカにならなければ人は幸せになれないのならば、論理など追求しても仕方ないのではないか? では何故法や論理は存在するのだろうか? 人間はダメな生き物なのだ。矛盾だらけの世界で皆生き、限界を知ることでバランスは保たれる。論理も感情も人々が期待し価値を認めるものはすべて大事でありながら、主義に陥り偏ることでバランスを失っては、その価値も危うくなる。息を吸って吐く。思考を重ねることと、思考を一旦放棄することはこの身体運動と似ている。吸い過ぎれば苦しくなる。吐き過ぎても、足らなくなる。考え過ぎてもダメ。追い過ぎたり追求し過ぎたり、それもダメ。しかし、放り投げ辞めてしまうことも、一時にしなければならない。このバランスが崩れると、ノイローゼ気味に固執性が生まれたり、捨てることや放り投げることに夢中になり過ぎて追っていたものや、追うべきものが分からなくなってしまったりしてしまう。
薬は思考放棄を身体に強要する。クリエイティブな世界に生きる人が、精神医学会に飼い慣らされて薬漬けの生活を送り、その中で過激で大胆な意見を発表し続けることは難しい。精神医学会は病者に自分で自分の尻を拭く能力を認めないのだ。おかしな言動を薬で修正して、一体なにがやりたい? 非行行為に走る可能性があるということなら、健常者も同じだ。突発的な衝動性が起こす犯罪に関して、健常者も障害者も優劣はない。挙動不審な言動など誰にでもある。年金生活の需給や国依存への推進など、それを鵜呑みにした人間に、社会問題への問題提起能力は認められづらいだろう。個性的な人間時に狂気を孕む人間が、とてつもないアヴァンギャルド性に富む芸術作品を作る可能性はあったとして、国依存を自ら選ぶ福祉依存者としての精神障害者に真の意味のクリエイティブを認めることが出来るだろうか? 疑問符がないということは権威や権力に飼い慣らされやすいということ。自由でない鳥の歌うラブソングや、社会風刺に多くの人は耳を傾けることをしないだろう。
世界を理解するためのナレーション能力。私にはその能力があるつもりである。私は頭の中で常に一人喋り続けている。私の頭はうるさい。動く本であり、言葉であり活字であり、歌である。歌で綴る物語絵巻。つまり、ファンタジーの世界を私は生きている。この世界を生きないものと私はなにかを分つ合うことなど決して出来ない。私はマイノリティであり、失敗者の中でもエリートになる素質を持ち合わせた人間なのだ。
結:この日記の中で私はいくつか的を得、真理をついたことを書いたのではないか? と思う。それを発表し、読んで頂くことで、共感されうなづかれることもあるのではないか? と期待を抱き、公開することにしました。私の人生の経過と、人生観。幾分非難めいた他者への批判内容共々、どうお感じになるかは勿論自由ですし、そこに注文をつけるつもりはありません。無視してスルーして頂いても、批判して頂いても結構です。公の掲示板に晒す以上謙虚にするよう努めます。