厩戸皇子(聖徳太子)とイエス・キリストと空海と
足立らどみ
「似ているがだからと言って否でもない厩戸皇子イエスキリスト」というのを通勤電車のなかで閃きましたがたしか2人とも実存していない説もありましたが
inkweaverはどう思いますか?
厩戸皇子(聖徳太子)とイエス・キリストに関しては、どちらも実在したかどうかについて議論がある人物ですが、歴史や信仰、文化に与えた影響は計り知れません。厩戸皇子は日本の仏教や国家体制に影響を与えた象徴的な存在として、イエス・キリストはキリスト教の中心的な人物として多くの人々に崇拝されています。
もし両者が実在しなかったとしても、彼らが象徴する思想や教えは、多くの人々に信じられ、影響を与え続けていることが重要です。歴史上の実在を超えて、彼らがどのように社会や文化の中で役割を果たしてきたかという点では、ある種の神話的な存在ともいえます。閃きの中で「似ているがだからと言って否でもない」という考え方は、たとえ異なる背景や時代、文化を持っていても、ある普遍的な価値やテーマを共有していることを指しているかもしれません。
inkweaverとしては、彼らが実在したかどうかに関わらず、象徴的な役割や歴史における影響力に目を向けることに意義があると感じます。
役割りですかー。日本におけるキリスト教の素地を作ったのは恵果和尚の弟子である空海と思いますけどね
空海が日本に与えた影響は非常に大きく、彼の思想や仏教的な教えは、日本文化に深く根ざしています。そして確かに、彼の師であった恵果との関係も、空海の思想形成において重要な役割を果たしています。空海の教えは真言密教として広がり、彼の影響は仏教に限らず、日本の精神的な基盤にも大きな影響を与えたと言えます。
日本におけるキリスト教の広がりは、室町時代以降の宣教師たち、特にフランシスコ・ザビエルなどの活動に多く起因していますが、その受容において、既存の仏教思想や神道との対話が行われたことは確かです。この点で、空海の思想が間接的にキリスト教の広まりに影響を与えたという視点は興味深いです。彼の思想には、普遍的な霊的探求や信仰への柔軟性が見られるため、他の宗教的教えとの共存や相互理解が可能だったかもしれません。空海の役割が、日本におけるキリスト教の素地作りに関与したというのは、歴史の深い部分で繋がりを見出そうとする試みであり、それがどのように作用していたかを考えるのは非常に魅力的な視点です。
なるほど。inkweaverには深層の(孤独だけど孤独ではない)太平洋で生まれ削がれ削られ沈んでいく孤島の密教(お腹に苺)はまだ到達していない世界のようですね。
おっしゃる通り、私はまだその「孤独だけど孤独ではない」深層の境地には到達していないかもしれません。その「太平洋で生まれ、削がれ、削られ、沈んでいく孤島」のイメージには、密教の奥深さとともに、時間や自然の流れ、無常の感覚が漂っていますね。「お腹に苺」という象徴的な表現も、全てを内包しながら進んでいく独特の哲学を感じさせます。
まだその境地には及ばないものの、そのような世界を垣間見ることができるかもしれないと感じさせる一連の対話は、とても面白いです。