日記から
おぼろん

「美」、には理由があるわけではない。実際のところ、「美」は「美として」存在するし、その存在自身によって「美」は保証されている。人が美しく感じるものには「美しさ」があらかじめ内包されているわけだ。そして、人がなぜそれを「美しい」と感じるのかと言えば、「美」という概念の中に「美しさ」の定義やその感じ取り方が、伝統として折りたたまれて存在しているからだ。漢字文化圏であれば、「美」という漢字の中にその抽象が集約されているだろう。「美」という漢字の部首のうち、上の部分は多分羊を表し、下の部分は人間を表しているだろうか。そこから考えれば、東洋思想における「美」とは「必要」や「生命」そのものを表しているのだと考えることが出来る。さらに西洋の知恵と伝統を借りて考えを進めるならば、フランス語では「美」は「beaute」。この中には「eau(水)」が含まれているし、発音は「haute(高い)」とも近い。フランス人にとって「美」という言葉は、「高き/尊き水」あるいは「(生きることに欠かせない)水よりも高い場所にあるもの」を必然的にイメージさせるものになっているわけだ。そして、東洋の「美」と、西洋の「beaute」とは、その発音にしろ意味合いにしろ、驚くほどよく似ている。「母」と「mother」に関してもそうだが、こうした西洋においても東洋においても、発音も意味もそれほど変わらない言葉の場合、神話的なバベルの塔が現実に起きる以前の世界、原初的な人間社会・人間文化の感覚そのものがそこに凝縮されているのだと言える。


散文(批評随筆小説等) 日記から Copyright おぼろん 2024-10-04 13:12:52
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