犬の影
まーつん

思い出は寄り添う
犬のように

抱きしめ、
愛おしむことができる
そんな記憶だけを
私は飼っていたかった

だが因果なもので、心の眼というのは
暗く忌まわしい思い出の方に
向いてしまいがちだ

嫌な記憶で出来た思い出になど
居座ってほしくない

だから、それを捨てようとした

でも、それは何度でも戻ってくる
檻に閉じ込めても、焼却炉に投げ入れても
玄関から放り出しても、山奥に置き去りにしても

家路を辿る犬のように
思い出は戻ってきた

私がキッチンの床に座り込み
流しの下に寄りかかっていると
扉を引っかく音がした
私は立ち上がって、玄関に行った

扉を開けてみると、
ぼろぼろになった思い出が
私に飛びついてきた
尾を高く振り、身体を摺り寄せ、頬を舐めてくる

その瞳の奥を覗けば
かつての私自身の苦い記憶が
生き生きと踊っている

私は目をそらし、そっと抱き上げ
これが最後と車に乗せて、遠い海に向かった

思い出は助手席に座り、
少し開けた窓から吹き込む風に興奮して
ハッハッと荒い息をし、舌を出した

高く切り立つ崖の上で、私たちは車を降りた
空を覆う厚い雲が、風に流され、南を目指していた
砂利や小石が、靴底の下で擦れ合った
思い出は、私の周りをグルグルと回りながら
時折愛くるしい目で見上げてきた

コートから取り出した古いナイフで
わたしは、自分の身体から
一片の肉をそぎ落とした
それを思い出の鼻先に近づけ
匂いを覚えさせた

そして、
暗い波の群れが駆け回る海原の
遠く霞む水平線めがけて
力いっぱい投げた

ためらうことなく跳躍した思い出が
宙を舞う肉片には届かないまま
眼下の海に落ちていった

私は傷口を押さえ、しばらく立っていた
荒波の群れに喰われたのか
思い出は浮かび上がっては来ない
吠え猛るのは風ばかりだった

私は車に乗り込み、再びアクセルを踏んだ
口笛を吹くと、傷が激しく痛んだが
気分は軽くなっていた

私は家に帰った
今度こそ
あの思い出と縁を切った
そう思っていた

だが、予想外のことが起きた

翌朝、居間のソファに伸びていると
目の前のカーペットに
大きな黒い染みがあるのに気づいた
滑るような動きで床の上を移動し
音もなく私の足元に
すり寄ってくる

その染みの形は
昨日葬り去った思い出にそっくりで
内側が黒い闇に塗りつぶされ

振り立てる尾
笑う口と垂れた舌
ピンと立った耳、
呼吸で上下する胸元
歩を重ねる四肢

それは唯の染みではなく
生きた影であることに
私は気づいた

その影を、うっかり踏もうものなら
恐ろしく鋭利な感情が
私に突き刺さり
思わず叫んだ

新しい発見だった
どんなに嫌な経験をしても
その記憶を捨て去る事が出来れば
過去に囚われずに済む
そう思ってきた

だが、消せないものがあった
その時味わった感情だ
怒りや悲しみ、屈辱に憎悪

それらの感情は
ひとつの黒い影となって
取り残された双子の片割れのように
あてもなくうろついている

鼻をひくつかせて探している対象は
多分、自分の存在理由だろう

いつか、その思い出の影は
私自身の影と溶け合い
一つになるだろう

その時、私はどうなる
牙を剝き、吠えるのか

己を掻き立てる感情の
源を知らぬまま
誰に噛みつくというのだろうか

主に捨てられた
犬のように


自由詩 犬の影 Copyright まーつん 2024-09-28 21:22:18
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