ひだかたけし「熱の同心居」
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(1)
これはまず、反戦の詩でもあるのだろう、そんなことを思います。なぜそう思うのか? 単純に、この詩には争いを忌避する表現が現れているからです。ですが、その「争いを忌避する」思いというのは、通行人が街角をふっと通り過ぎるように、かすかにだけ描写されている。具体的には、このような部分です。
この街の営みの傍らに殺戮の戦いの傍らに平和の祭典の傍らにこの街の
もちろん、今の時代、例えばウクライナの戦争などのニュースはリアルタイムに入ってきます。ガザ地区での戦争しかりです。ですが、シリアの内戦についてはどうだったでしょうか? 争いは終結したのでしょうか? わたしの認識と知識では、それは終わっていないように感じられます。ただ、<ニュースがない>だけなのです。
過去にはどうだったでしょうか。日本軍が満州に侵攻し、満州国を設立したとき。中国を日本の支配下──というのは適切ではないように思えます──統制下に置こうとしたとき、その報道はしっかりと日本に伝えられていたでしょうか。わたしはそのことを疑問に思います。ちょっと出典を確かめる気力がないのですが、詩人の中原中也は中国での事変にあたって、下のように述べています。
日本はちっとも悪くない!
吊鐘の中の蛇が悪い!
だがもし平和な時の満洲に住んだら、
つまり個人々々のつきあいの上では、
竹馬よりも吊鐘の方がよいに違いない。
「吊鐘の中の蛇」というのが中国の(政体の)ことであり、「竹馬」というのが日本の(政体の)ことです。ここに、芸術に投身した中原中也の姿勢が見てとれます。中原中也というのは、一般的にそう思われているような抒情的・直情的性向の詩人だったわけでは必ずしもなく、「芸術論覚え書」などは極めて理論的に書かれています(ただし、夭折した詩人らしく、認識の甘さは否めないです)。
(2)
ひだか氏の詩に帰りましょう。この詩のなかで、氏は珍しく政治的な表現をしているように感じられます。否、たぶんそう書けば氏は「これは直観に基づく表現であるのです」と反論されるとは思うのです。ですが、氏の見て来た世界・社会・環境において、人がどう生きてきたか、ニュースはどう動いたか、といった感想が、言葉の端からこぼれるように表れています。この主張に異を唱える人はいないでしょう。たとえば、氏の時事的な感覚などは、以下の部分にも表れています。
スマホ歩きする若者達避け歩き進みながら
もっとも、上に挙げた引用が、氏が時事的な主張をするために書かれたものだとは、わたしも思っていません。氏の感じる自然(都市、あるいは都会も現代においては自然であるとわたしは認識しています)のなかで、心からこぼれた感慨のように綴られている。わたしはただ、その表現を「氏においては珍しい」と感じるのです。
氏の詩的活動において、「進歩した」あるいは「変化した」と書くことをためらいます。と言うのは、過去に何度かそのような感想を書いて、氏からしかられた経験があるためです。その都度、わたしは「たしかに進化しているのに」などと思いながら、氏にとって詩的な活動というのは、つねに一貫した生の営みの上で現れてくるものなのだな、と認識しました。ですが、読者にとってはどうなのでしょうか。連載小説のストーリーが変化するように、ある一詩人の「詩想」が変化していく、そこに読み手は「どきどき」あるいは「わくわく感」を感じ取っても良いような気がするのですが……
ですが、わたしがこの詩に見て取り、感じ入ったのも、そこに<政治的な感覚>が表れているからではありません。そこにあるのは、逆に<平和的な感覚><平和の脆さ・危うさ>なのです。わたしが何を思ったかと書けば、その<脆さ・危うさ>の表現が至高だと言うことです。平和な社会は平和な人生を招き、平和な感覚を招聘する──無自覚にそのようなことを考える読者もいると思うのですが、この詩に現れているのは、決してそのような単純な思いではなく。
(3)
この詩のなかでほっとするのは、以下のような(冒頭の)部分です。
街の通り花壇周りの草むしりするおばさん達、
ぽつぽつと明かり橙に灯る小さな美容室、
青いバット握り締め素振り繰り返す少年、
氏は、観察した人間像をそのままに描写する、ということがほとんどないのですが、この詩においては、明らかな慈愛の眼差しを持って人々の生活が観察され、描写されている。過去にも、氏の作品において、そうした描写は断片的にはありました。ですが、この詩においては昭和初期の詩人や、戦後詩の詩人たちがそうしたように、繊細に、あるいは執拗にそうした描写がなされている。詩の世界において、<三行の叙述>というのは、重いものなのです。
再び当初の主張に戻って、例えば2024年8月6日に書かれたこの詩において、氏が「原爆忌」ということを意識していたかどうかは分からないのですが、この詩において、社会と自身の生活、あるいは生命とが混然一体となって昇華する、というあり様は仔細に表現されているように思えます。というより──仔細すぎる。詩人の思想の変化? などを心配する読み手であれば、ここに「詩人は右傾化した」または「詩人は左傾化した」という下らない発情を感じ取っても良いのです。
この詩を書くにあたって、氏が一瞬の静寂・安静を得たのあれば幸いなるかな、と一批評者になりたいわたしなどは思います。氏の綴ってきた詩想・思想は重いですし、そこに詩人の苦しみがあると認識している故です。
この詩においては、すべてが叙述のみによって成り立っています。──抒情? そうしたものもないわけではないでしょう。読み手によっては、ここに氏の「抒情」が現れているように錯覚することもあるかもしれません。しかし、それは真に「抒情」でしょうか? わたしにとっては、それよりももっと重い意味での「叙述」が貫かれているように思えるのです。もちろん、「抒情」「叙事」「叙述」の違いについて、ここでは詩を読む前に深く考えていただければ、と思うものです。
(4)
さて、この詩人における、この詩において、読者は何を感じ取るべきなのでしょうか。わたしが思うのは、以下の部分に表れている「ヒビキ」と「ヒカリ」に注目しなくてはいけない、ということです。
ヒビキヒカリ放ち織り込まれ
沈み込み沈みゆく奥へ億へ
前後の詩句を割愛したゆえに分かりにくくなっているとは思うのですが、氏の詩作の歴史において、「ヒビキ」という言葉は繰り返し使われてきました。一方、「ヒカリ」という言葉は一度しか使われていません。実際に現代詩フォーラムという投稿サイトにおいて、氏の詩を検索していただければと思うのですが、具体的には「捧げもの」という詩のなかで、「ヒカリ」という言葉が使われています。
「ヒビキ」という聴覚に由来する言葉、「ヒカリ」という視覚に由来する言葉……氏の詩史のなかで、これほどまでに視覚と聴覚とのアンバランスが現れてくるのは、なぜなのでしょうか。わたしは、そこに氏の「性格」「性向」を見てとっても良いように思います。ですが、ここにおける「ヒビキ」と「ヒカリ」とのアンバランスは、そうした解釈を越えるものです。
この「ヒカリ」という言葉が、詩人において新たな光明をもたらすものであるのかどうか、わたしは自信が持てないでいます。ですが、「ヒカリ」という言葉が氏における「Vision」という言葉の代替として使われるのだと思ったとき、読者はこの詩について読み解く大きなヒントをもらったように思えるのです(氏は、その詩史を始めるにあたって、「Vision」という詩をもって、書き始めました)。
氏は、常々氏の詩は「直観」の産物である、ということを言っているのですが、直観はすなわち言葉に還元されなければいけません。そうでなければ、詩というものが真に理解されることはあり得ないためです。「詩の言葉」において、「言葉の意味」を探っていくことも、あるいは「詩の意味」を探っていく過程において大いに助けになるものである、とは思います。ですが、そこで「詩の言葉」が「詩の真の理解」につながるのかどうかと言うと、わたし自身は甚だ疑問に思います。
わたしはなぜ、この詩を氏における「反戦詩」だという議論で、この文章を始めたのでしょうか? それは、単にそうした記述のほうが、読み手にとっては分かりやすいと思った故です。詩の本質は、もっと奥底にあるのです。
ある一人の詩人において、自らの思いと、それを書きだした言葉における表現というものの対立は、つねに絶望的なものであり、この「絶望」を感覚しない作者というのは、「偽物」であるように思えます。
この詩、「熱の同心居」において、言葉はどのように終えられるのでしょうか。以下の通りです。
その突端を眼差して熱持ち思いっ切り投げ入れる。
ここで、作者はあらゆる過程、あらゆる世界の認識を排して、「今自分は何であるのか?」ということに帰っている。そこでは、「まがい物の平和」もなければ、「戦争にたいする反感や悲しみ」なども廃除された上で、人が一個の人であることの、本質的な意味に遡った表現がされているのです。
「反戦の詩」──それも正しいのです。そのことは、詩人のモラルを保証してくれるでしょう。ですが、「戦争よりも辛い平和は?」「安寧よりも辛い不幸は?」……そうしたことを喚起させる、使い古された言葉ですが、「人が生きている、そのことそれ自体による悲しみを、わたしたちはいかにして克服し、克服していかなければならないのか?」といったテーゼに対する、「一つのヒント」がこの詩のなかには込められている/隠されているように、わたしは思うのです。
この詩人の活動、言葉における律動、それらは、鑑賞者の想いを越えていきます。ただただ圧倒されるしかない……ですが、詩の読者とは常に詩の作者に追いつけないものなのでしょうか? 否です。詩の読者は、詩の作者を越えていくべき存在だと、思っています。「ここからどこへ?」──それは、詩の読者が決めるべき課題なのです。