空を買いに
由比良 倖

 その店には誰もいなかった。天井は無く、空だけが拡がっていて、それは染みひとつ無い、上質な青空だった。空には値札が貼られていたけれど、少しばかり高価だったので、1m四方くらいなら買えなくもないけれど、僕の部屋の天井全体に設置するには、手持ちのお金では足りない。
 僕は売り物の風や、畦道を見て歩いた。ヴィンテージの古い池があって、お誂え向きに、怪しく光る満月と、夜空を棚引く雲の端まで売っていた。さすがに古い物だけあって、相当な値段が付いている。池に飛び込むカエルはオプションだった。
 金閣寺を売っているコーナーまで来たとき、ややリーズナブルなミディアムサイズの池の側には、中古でジャンク品の墓が売ってあった。苔むして戒名も読み取れなくなった墓石が、焚書前の本の山のように積まれている。人は死んだら、本になる。ほぼ駄作の、それらの本たちを、僕は軽蔑しているけれど、中には詩的な本もある。極々少数ではあるし、相当珍しいことではあるけれど、誰かの死が、誰かの生の中で生き続けることもある。
 金閣寺は夕暮れを反射して、美しい音楽の休止符のように、永遠に引き延ばされた一瞬の緊張に、じっと耐えているような、目を逸らしがたいオレンジ色に光っていた。
「いらっしゃいませ」
と、高くもなく低くもなく、男かも女かも分からない声がしたので振り返ると、ヨンシーが立っていた。シガー・ロスのヴォーカルで、僕は彼のファンだ。
 ヨンシーだけあって、結構な値段が付いていた。
「こんにちは、ヨンシーさん。でも僕はあなたを買えない。このお店は、良品ずくめですけれど、僕のような貧乏人が来る店でも無かったと思うんです。お邪魔ではないでしょうか?」
 ヨンシーはにこにこ笑って、
「歌だけならお安く出来ますし、実のところ、あんまりたくさん売れちゃうと、お店がすかすかになって困ります。大抵売れるのは、結局気に入った石ころをひとつ買って帰るお客さまがいたり、思い出を買って帰ったりで、それで十分なんです。もちろん、お好きなだけ見て回るだけでもいいですよ」
「思い出が欲しいです。売り場はどこですか?」
 ヨンシーは、斜め後ろを振り返り、「あちらです」と言った。

 僕は僕の思い出を購入して、書き割りの背景みたいな夜道を歩いて、家に帰った。灯りを付けないままで、思い出を一気に飲み下した。それから、睡眠薬を5錠ほど。そのままベッドに潜り込むと、僕の心臓の中心辺りに、冷たい何かを感じた。
 試しに、少し回らなくなってきた舌で「僕は……」と呟いてみた。何となく毛布がひんやりしてきた。僕はベッドを降り、毛布を引き摺って、書き物机の下に潜り込んだ。机の上には、本が今にも雪崩を起こしそうなくらいに積み上げられている。明日はそれを片っ端から片付けてやろうと思った。
 僕は微笑して、浅い眠りに就いた。


散文(批評随筆小説等) 空を買いに Copyright 由比良 倖 2024-07-31 10:31:18
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