幸福論
田井英祐
幸せになるにはどの感覚を育てればよいのだろう。わたし一人にはわからないからわたしのかわいい人に触れてもらってそこがどこか確かにしてもらう。わたしには私一人きりの幸せなんてありません。もしかしたら幸せにわたしは必要ないのかもしれないとおもうことさえあります。
恋人にまた会うまではとてもくたびれる人、もうめったにあいたくないとおもう。そうおもえばさっぱり、なんのことなくふつうの月日にもどり、3時のおやつも待ちどおしいくらい待ちかねていただきます。夕方、食堂の机に肘をついてぼんやり、人の寿命にふさわしい、結婚、子育て、老い先までのだんどりなど日が落ちはじめるころまで考えても自然のことのよう。それから、トントントンとまな板を叩いてシャクシャクとしゃもじを滑らせひな祭りのお夕飯の準備。夕闇が部屋のなかに落ちて弟と妹の足音が家の二階からすべりおりてくるころ私は料理の味見を終え頬緩ませる。お吸い物の味もよし、酢の物もぴったり、散らし寿司は艶やめいて食卓にあでやかに映え、ひな祭りが色どわれる頃、弟と妹の顔もほころんで、笑顔が咲く家庭、日本で一番よい家族の夕食が始まります。
双子お揃いの「おいしい」のデュオと二人の笑顔に頬が緩む。弟のユウがお茶碗を箸で鳴らしながら散らし寿司をかき込むと妹のマチコがユウの頭をはたく。はたかれたユウが見つめかえすとマチコは目を涙いっぱいにする。でもマチコは自分が正しいことを疑わない。
「ユウニイきちゃない」
「おみつちゃんは、ご飯は楽しく食べるものといいます」
「ユウニイはお犬さんみたいに食べてたのしいの」
「お隣のコロは楽しそうに食べます」
「イヤ」
マチコが両手で顔を塞いでしまうとユウはわたしをうかがうようにしてみる。
「みつ姉ちゃん、マチコが泣くとご飯食べても楽しくないな」
私もマチコのマネをしてお箸を置いて両手で顔を塞ぐ。私はユウがどうふるまうかを中指と薬指のあいだからうかがう。ユウは指の隙間にある私の目をじっと見つめて、
「おみつちゃん、ズルい」
シンとした食卓にユウの声だけが響く。ユウが「もう」とか「ああ」とかプチプチため息をつきながら両手で頭を抱え込む。それだけでは私とマチコはピクリともしない。ユウの瞳はまぶたのなかでコロコロ揺れて今にも涙と一緒に零れ落ちそうだ。
「おみつちゃんもマチコも、二人してズルい」
ユウはひとつしゃっくりをして
「あーん」
と泣いてしまう。
「ヒクッ」
泣きながらしゃっくりがとまらないユウの背にマチコがそっと手を伸ばしてさすってやる。しゃっくりをしながら鼻をすするユウの鼻水を吹きながらわたしはいう。
「ユウ君、みつ姉ちゃんも謝らなくちゃいけないことがありました」
椅子をひいて立ち上がり台所の方へ回って冷蔵庫を開きお刺身が盛られた大皿をとりだす。大皿を持って食堂に戻ってくるとマチコが口の前で片手をひろげ「きゃっ」と叫ぶ。ユウも大粒の瞳をめいっぱい開く。
「わーお」
「お姉ちゃん、お刺身のこと忘れてました。ユウ君ごめんね」
ユウは椅子からとび下り猛スピードでこちらに駆けてくる。そのままわたしの腿にぶつかり顔を埋めてこすりつける。ユウの涙にぬれた睫毛が素足の腿にふれてこそばゆい。わたしがゆっくり膝を曲げてしゃがみ、ユウの頭の上にお刺身の大皿をそっとのせる。
「んーん」
とユウが嫌がるので大皿をユウの頭の上から持ち上げてしまう。
「いやなのユウ君」
「いーや」
わたしの胸にユウの頭が体当たり。胸に顔をうずめたユウは私の背中に手を回す。
「ユウ君、お刺身食べようよ」
「んーん」
ユウは私の腿に腰をおろし体をぴったり寄せつけ両手両足でしがみつこうとする。お腹にユウの腰骨があたり脇腹をほっそりした足がしめつけて少し痛い。私のお腹にぴったりとくっついたユウをしがみつかせたまま立ち上がるとマチコがきゃっきゃっと声を上げる。
「ユウニイ、コアラみたい」
そのまま前かがみになってテーブルにお刺身を置こうとするとユウの足に力が入って脇腹の痛みがます。テーブルに置かれた大皿を見たマチコは「わあ」「お頭もついてる」「すごい」と言いにんまり顔。
「武田のおじさまからもらったの。今度お礼をいいましょう」
「うん、まちこ武田のおじ様大好き」
「ぼくは嫌い」
「どうして」
「お姉ちゃんとケッコンするのは僕だもん」
恋人にまた会うときには、なんだか予感というようなものがある。ふと、ただこれだけの日々、ただこれだけの自分ではというような不満が覚えられてばかばかしい気持ちになりかけます。けれども考えるとその気持ちもまた馬鹿らしくおもう。こうして互い違いに胸に浮かぶことを打ち消すさまは、ちょうど闇の夜空に浮かんでは消える打ち上げ花火でしょうか。好きでもない男と婚約するまえの青い憂鬱な気持ち、わたしの心に赤い血を通わせる恋人をおもう気持ち。二つの気持ちが打ち上がっては消えをくりかえし過ごしていると、貧血もちのように顔を青くしたり、熱病やみのように頬を赤くして、せわしなくてしょうがない。
そんな日々が続きくたくたに疲れてしまうと、わたしはふと恋がしたくなります。
そんな夜は叔母に電話して弟妹を早めに寝かしつけてしまう。お夕飯の残りをお弁当箱の上段に並べておにぎりを握って下段につめて2段に重ねて風呂敷でつつみます。姿見の前で部屋着を脱いでわたしの身体が一番綺麗にみえるおしゃれ、ほっそりと伸びたわたしの身体ぴったりにつくられた赤い襟付きの紺と赤のツーピースワンピース。紺色の上衣に下衣の赤スカート。赤地のスカートから紺地の上衣の胸部に赤いラインが延び縦にまっぷたつにわるモダンなデザイン。ファンデーションをスポンジにとりそっと内から外側に広げ叩き、額、鼻筋、口の周り、目の周りを重点てきに仕上げ、最後に唇紅をさす。腕時計を外し、エナメルグリーンのヒールを履いて、玄関の扉をそっとしめ、よい子達におやすみをいうシンデレラ。ここまでが私の恋の準備。
時計は9時をまわり夜に虫の音が響く。玄関先の敷石をヒールでそっと叩き虫の音をわる。郵便受けに鍵を入れて、亡くなってしまった両親の母方の叔母が明朝に家に入れるようにしとく。家の門を出たとたん、わたしはヒールでエイトビートを刻む。そんな躍るような心持ち。
胸を打つ音とヒールがコンクリートを打つ音がわたしをわたしでなくしてしまう。そんな気がして少しおそろしい。けど、このおそろしくてくるおしい気持がわたしにはよいものにおもえる。だから、わたし、恋をしに行く。
JRの小さい駅で恋人を待ちます。駅前のベンチに座ってお弁当が入った麦わらのトートバックを膝にのせてロータリーを走り回る車を見ている。電車が到着するごとに、たくさんの人が改札口から出てきてバスに乗り込み運ばれていく。腰をおろしているベンチは乗車場の傍にあるので彼らはわたしの前を通り過ぎていってしまう。わたしはそこで耳にイヤホンをつけてPOPsを聞きながら彼を待つ。
わたしはラブソングばかり聴く。ラブソングよりほかに知らないかもしれない。POPsのラブソングではだいたい3分から4分のあいだに恋の予感から終わりまでが歌われます。実際の恋もこのぐらいスピーディーでコンパクトだったよいのに。だらだらと長いこと退屈な恋なんてしたくない。
でもわたし退屈な恋をしらない。恋は、朝起きて寝ぼけ眼でカーテンを開けて飛び込んでくる目をみはるような空の青さと登校時に咲いていて下校時に散っている春の桜、この空色と桜色の色彩が渦巻いてグッと縮んで、それをそっと胸におさめて、おさえきれなくてパッと晴れた気持ちのまま駆けだして両手両足をバッと広げて宙に跳ぶ感じ、そんなふうな、おもいっきりの気持ちをぶつける愛。
そんなふうにおもいめぐらしていると、約束の九時半を過ぎていました。一〇時半手前に恋人がベンチ前のロータリーにバイクを止めてこちらに手をふる。彼はわたしが近づくとヘルメットを手渡します。挨拶を交わさず彼の背中からお腹に手を回しぴったりと抱きつくただいま。恋人がギュッとハンドルを握ってエンジンをふかすおかえり。挨拶がすむとわたしたちは夜のきらびやかな光のなかへと駆けていきます。クリーム色の車体が外灯に照らされて光り、わたしたちは一つの反射光となって夜の光のなかに入っていきます。
一つ目の停車信号に照らされた時に私は右耳からイヤホンを外すと彼の右耳にそっと近づけます。彼はイヤホンを手渡されると右耳に突っ込む。彼の背中に左耳をピッとつけて抱きしめる。境界線みたいな体が邪魔です。半径3メートル以内の世界のすべてを愛おしみ抱きしめる腕が力む。決してけがれることのないこの私のしあわせの絶対領域であり最小単位の恋愛、わたしはこの夜が終わりをつげるころに、自分の手でこの幸福にさよならをいう。
十一時ぴったりに彼の住むアパートの部屋に着くと食事を簡単にすましてしまいます。そのあとレンタルビデオ屋で映画を借りて部屋に戻る。部屋の壁が薄いのでTVにシーツをかけてテントみたいにしてその中で映画をみます。わたしと彼はシーツにすっぽりと包まれたなかでお互いの身体をよせあわせる。
「これはランボーだ」
「男が死んでも女は残って生きて行く」
「そういう映画」
彼はなにも応えないわたしの唇を奪う。唇をかさねあわせていると彼の携帯が鳴る。彼は私を抱きとめたまま通話をはじめる。わたしの後頭部からうなじで話される三度目の別れ話、わたしは三回彼の首筋を甘く噛む。
あさ、肌がシーツの冷たさに目覚めて覚えるせつなさ。着替えをすませベットに寝ている恋人の瞼にそっとキスをしてはじめる別れ話。羽ばたくようにして開く彼の瞳がわたしを見すえる。3年間ものあいだこの人の射るような視線をほしいままにしてきた。そして今日わたしはその視線からそれて彼と別れる。
彼のはばたくようなまばたきが閉じられたのはわたしが弟妹の話を始めた時だった。荷物を膝に乗せてベットに腰かけた私は断言する。
「家族を養うことはあなたにはできないとおもう」
彼は弓を引くように目をほそめてなにもいわない。
「ズルいことが嫌いなの」
「でも君は婚約者がいながら僕と身体を重ねてる」
「わたしのかわいい人はそんなこと知っているわ」
パチリと開かれた彼の目の底を今度はわたしが射ぬくように眼をほそめる。
「ズルい」
彼の表情全体が弓なりに歪む。その顔にフカフカの枕をボスンと落とす。
「あなた、最後までかわいくいなさい」
「そしたらわたし、またあなたのところに恋をしに行くわ」
そういい終えたわたしはベットのスプリングをボヨンと揺らして立ち上がり部屋を出た。閉じた部屋の扉にフカフカの枕のぶつかる音がして耳に残る。わたしはその音を消すようにヒールの踵を地面におとす。
わたしはわたしのかわいい人に幸福を教わろう。そう思います。