四千七百四十五日
ただのみきや

風が立ち止まると
その樹は息絶えた
葉はみなとけた
地に届くこともなく
夢の中のおたまじゃくしが
絵具のパレットから拭い去られるように

朝は被膜に覆われ
影はみな死産の仔
へその緒がついたまま
オブラートの中で誰かの本音がもがいていた
姿を見せない鳥の声だけが石化して危険
きみは阿片みたいに時をとかす
わたしからは中吊りのまま喜んでいる
女の腰骨の匂いがしただろうか

定められた正しい輪郭から
色は滲んではみ出していた
病院船に降り立った無数のアホウドリ
造花で飾られた古の母たちが
甲板の裂け目に集まって絵筆を洗っている
血は水へと変わり
上流へと誘う澄んだ流れとなる
追いかけて追いかけて手足のないころまで戻ったら
表裏である生と死のあまりに遠い隔たりに
舌を切って置き去りにした風鈴の首はねじれ
切り出した記憶の部位をステーキにする



影は自由気ままに男を連れ回す
厄介ごとを負うのはいつも男の方だ
捕まることも殴られることも影にはない
厚みも重さもない
車に轢かれることも
だが引き回される男はたまったものではない
影を消すには方法は三つ
一つ 四方八方上下から光を隙間なくあてて
影を滅すること
二つ 光が全く入らない真の闇に入ること
三つ 意識を永遠にoffにして影とのかかわりを断つ
ようするに死ぬこと
一つ目の方法のために男は神のもとへ行った
神は完全な光であったから
だがその光に完全に没入するためには
男には信仰があと少し足りなかった
二つ目の方法のために男は悪魔のもとへ走った
悪魔の住む暗闇が一番濃いに違いないと思えたから
だが悪魔も時折こころを奪われて
眼を細めてひっそり暗がりから光を愛でることもあり
結局はだめだった
三つ目の方法のために 男は今 遺書をしたためている
男の書いている遺書自体すでに深い樹海になっていて
うっかり読んだものは二度と戻っては来れないだろう
すると突然紅葉でもしたかのように
文字のひとつが真っ赤に染まった気がしたのだ
それはいままで経験したことのない現象だった
男は目を凝らしたり利き目を片手で隠したり
両手の指先で頭をツボを刺激してみたりもしたが
ふと こうして遺書を書いていることもすべて
影に引き回されていたにすぎないと気づいてしまう



朝目覚め からだを起こしベッドに腰かけると
床に下した足に冷たい波が絡んで指の間を真砂がすり抜けた
窓の方を向くと途端に窓枠は視界の外へ逃げ出して
穏やかな海が広がっていた
頭と天井の間にはどこまでも高く晴れ渡った空
一羽のかもめが横滑りに滑空していった
一冊の本が開かれまま波に運ばれて枕元に打ち寄せられる
その上にはトーストとコーヒー
ベーコンエッグとサラダの乗った皿がありサラダには
刻んだブラックオリーブとローストオニオンがかかっていた
皿は日差しを鋭く反射し網膜を切りつけて杏色の傷に
「太陽のせい」 あの言い訳は意図したものでないから美しい
今だ引力に逆らい続ける一個のヤシの実
過去でも未来でもなく横滑りする時間 そして
深く見通せない海の底から戻って来る水死したきみの
ぬれた黒髪の匂いを嗅ぎながら白化した珊瑚のような指で
わたしの心臓の裏側に隠された青い真珠が抜かれる感触を
眼を瞑り味わっている 
ああ触れられると必ず嘔吐えづくところを無防備にさらし
四千七百四十五日 きみの腰骨の濡れて張り付いたままの
頁を剥がすことにのみ費やして来たのだ
水は今も含み笑いのように光を孕んでいのちを模倣し
網膜は発火してムンクの描く女のような焦げ痕を広げ──
世界はこののち失明するだろう


                          (2024年6月22日)










自由詩 四千七百四十五日 Copyright ただのみきや 2024-06-22 12:07:09
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