詩小説『雨の日の猫は眠りたい』その3。+あとがき
たま
雨は詩歌。
雨はメタファー。
雨はわたし。
散文の海へ8
夏休みに入った。
家族連れでにぎわうビーチは、まるでキャンプ場のテント村みたいだ。ビーチパラソルなんていつ消えたのだろう。わたしがおもい描く海水浴場にテントなんてない。ビーチに視界を遮る個室なんていらないはずなのに、なにがうれしくて海水浴場にテントなんだろうか。それも風速八メートルも吹けば飛んでしまいそうな簡易テントばかりだ。テントの入口にはかならず塵みがあるが、他人の家の玄関先をのぞき込んでまで塵みを拾う気にはなれない。ビーチに個室を持ち込むのなら、塵みの始末はじぶんでやってほしい。わたしが拾う塵みは顔のない捨てられた塵みだけ。玄関に置いてある塵みは拾わない。
上田さんは「ややこしいゴミ」はそのままにしといて……というが、わたしの気分は「ややこしい」ではなく「うっとおしい」だった。
ところが、八月は砂粒のような硬い雨に叩かれた。
朝の晴れ間に出勤しても、午后は詰め所で雨宿りの日もあったし、一週間あまりしごとに行けないほどに雨は降りつづいた。
「こんなお天気なんで、きょうもおやすみにします。」
朝六時すぎに上田さんから電話があると、わたしはつい笑って歯磨きして、寝室にもどってまた寝てしまうけれど。夢の入口には、雨に濡れたちいさな塵みの山がいくつも溜まるばかりで、安眠を妨げられたわたしは、イルカやクジラの脳みそのように、半球ずつ眠ることを覚えてしまうのだ。それは雨の日と晴れの日を数えるようなものだから、わたしは雨の音を聴きながら、半分しかない夢のなかへと落ちて行くのだった。
夢のなかにはおおきな窓があった。
窓の外には海が見えた。
水平線の煙る視界のわるい海だった。砂粒のような硬い雨が海面を叩く音が聴こえた。窓のある部屋には白いペンキを幾度も塗り重ねたような壁があって、飾り気のない二等船室のような気分だった。たぶんここは船室なのだとおもった。だだっ広い部屋の床は硬く、部屋の隅にはフライシートの付いたドーム型の黄色いテント。その横に黒い長靴が一足。どうやら部屋の入口はテントで隠されているらしい。テントのなかにはチャックの開いたシュラフと、白いノートパソコンが見える。パジャマ姿のわたしは、窓辺の床に置かれたレスキューボードの上に正座して、波打ち際のライフセイバーみたいに海を見ていた。
白い壁を刳り抜いた窓は半分しかなく、というのは天井がないという意味で、灰色の雨雲に覆われた空を見上げると、砂粒のような雨はわたしの頭上を避けて、四方八方に落ちて来るのだ。宇宙めがけて飛んで行くロケットの操縦席にいるみたいで、うれしくてたまらないわたしが雨に見とれていると、雨雲がまっ黒に染まって、硬い雨はまるで青白く発光した流星のように糸を引いて落ちはじめた。
あ、流星雨だ……。
おーん。
おーん。
泣き叫ぶような、くぐもった声が聴こえた。
えっ、だれかいるの? だれ?
「次郎さん? ね、次郎さんでしょ?」
おーん。
「ちがうよ、俺じゃない。あれはさ、雨の叫び声だよ。」
「え? 雨の叫び声って……なにそれ?」
{つまりさ、雨は生まれたばかりの詩人のいのちだよ。だからさ、あの叫び声は、雨が描く散文ってことだよな。」
「え、うそっ? 散文なの?」
「そう、俺たちはさあ、みんなあんな風にして生れ落ちたんだよ。」
「俺たちって……? だれ?」
「だからさ、詩人だよ。砂粒みたいな雨になって生れ落ちたんだよ。とおい昔、散文の海へね。」
「散文の海へ? 雨になって……?」
おーん。
「じゃあ、俺、帰るからね……。」
おーん。
おーん。
「あ、あ……ねえ、ちょっと待って次郎さん、ね、ね、ちょっと待ってよ。」
おーん。
おーん……。
次郎さんが消えると、散文のような雨も止んだ。
窓の外は空が壊れたような乱暴な日差しが降りそそぎ、海は見渡すかぎり白い波頭が立つ群青の海へと変化した。いつかどこかで見た気がする偏西風の吹き荒れる海だった。
あ、そうか。ここは「かめりあ丸」の船室なのだ、と。気付いたわたしは、ガリレオ式望遠鏡を手にして、次郎さんのいる三宅島を探すのだが、水平線にはそれらしき島影はひとつもなくて、とうとう見つからないままに日は暮れてしまった。
カミオカンデ
空路から見下ろす
街の灯りはどれも小さく
星のような灯りの影に
粒子のような人びとが群れて
息づく気配がする
まどろみの中で
機体がゆっくり傾いて
真っ黒な海面が見えた
あの海へと
まっすぐ堕ちて行きたいと願うわたしは
やはり
流れ星の末裔なんだろうか
散文の海へ9
夜の海は物語が好きだ。
船室のテントに潜り込んだわたしは、ノートパソコンをひらいて半分しかない、というのはすべて書きかけの、拙い小説を書いた。
ガリレオ式望遠鏡を持つ女
青い瞳の女だった。
粗いモルタルと、煉瓦づくりの壁を刳りぬいた窓の、暗緑色のペンキを塗りたくった鎧戸は、わずかな隙間を残して閉ざしてあった。うす暗い部屋のベッドに腰を落として男は、汗臭いシャツと白いパナマ帽を脱いだ。港の荷役夫みたいな、右肩下がりのごつい肩から臍の下まで、曲のある黒い体毛が繁茂していたが、うすい頭髪と顎髭はほとんどが白髪だった。
暑くないか?……と男がいうと、傍らに立つ女はちいさな扇風機を回した。
「ごめんね、あかるいのはいやなの。」
窓辺のベッドで、男と女は、汗にまみれて埋め合わせをする。
鎧戸から漏れたわずかな白熱のひかりが、女の顔に当るたび、うっすらひらいた右眼が、月夜の猫の目のように青く灯るのを男は見逃さなかった。
カーテンのないガラス戸は押しあげてあった。
女が鎧戸をひらくと、眩しい汐風が流れ込んで部屋を満たした。窓の外にはやはりペンキを塗りたくったような紺青の海があって、そこは小高い丘に建つ一軒屋だった。
男はベッドに寝転がったまま、汗ばんだ指に乾いた葉巻を挟んだ。薄っぺらな鏡台に腰かけて髪を梳く女の肩のあたりで、ちいさな扇風機はずっと回りつづけていた。
「ねぇ、どこから来たの?」
鏡のなかの男に向って女が尋ねる。
「きのうの朝はマイアミにいたよ。証明はできないけどね。」
括れた腰までとどく女の紅い髪を見つめたまま男は応えた。
「アメリカ人なの?」
「ああ、いまはね。」
「アメリカ人ってふしぎよね。いつも国籍が曖昧なんだから。」
「なるほど、そうかもしれないな。あんたはここか?」
「そうよ。」
「見えないな。」
「かもね……あたし、むかしはアメリカ人だったの。」
「なんだ、俺と似たようなもんじゃないか。」
「アメリカって都合のいい国なのよ。ね、あなたもそう思わない?」
「そうだな……俺みたいな男にはね。」
「あたしは捨てちゃったけど、あなたは拾ったのね。」
「いや、拾われたんだよ。競馬場の外れ馬券みたいにさ……。」
「それって、どういう意味なの。」
「見た目はゴミだけど、どうしても捨てきれないやつってことさ。」
「あなたのこと?」
「だとうれしいけどさ。ゴミはゴミ、捨てきれなくても役に立たないやつは、やっぱしゴミだよ。」
「じゃあ、あたしはさ、オトコの役に立ってるわよね。」
「あ、そのセリフはあんたに似合わないな。」
「あら、そうなの。」
とぼけた顔して女は鏡のなかでウィンクして見せた。
「なあ、あんた。あんたの都合は知らないけどさ、もう帰る気はないのか?」
「どこに?」
「アメリカにさ。」
「もういいの、ゴミ箱には帰りたくないわ。」
「……。」
女はシガレットに火を付けた。
「ね……もういちどするでしょう? シャワーもあるし、ワインもあるわよ。」
「水はあるのか?」
「ふたり分ならね。」
じゃあ、とりあえずワインにしよう……と男はいって、つづきは海に日が沈んでからでいい……と、付け足した。
山羊の乳を塗り込めたような無骨な木のテーブルに、葉巻を持つ手で片肘をついて男はワインを呑んだ。あいかわらず、ちいさな扇風機は回りつづけている。
「もういらないんじゃないか? それ……。」
「どうして、暑くないの? あたしね、好きなの、これ。」
ちいさな扇風機の首を振るたびに聴こえるあまい音が、猫の嗤い声みたいで好きなんだと女はいう。
「猫の嗤い声? あんた、詩人だなあ。」
「そうかしら……あたしはどう見たって娼婦よ。詩人じゃないわ。ね、あなたは? お仕事あるの?」
「あるよ。小説家さ。ノンフィクションだけどね。」
「なあに? ノンフィクションって?」
「目のまえの現実を見たままに書いた小説……つまり、嘘は書かないってことさ。」
「あ、それならわかる。あたしも嘘はつかないもの。」
「じゃあ、ひとつ聴いてもいいかな?」
「いいわよ。」
「あんたの右眼……どうしたんだ?」
「やっぱしね。そうだとおもったわ。」
あたしの右眼はブルーサファイアよ……。
生まれてすぐに右眼を失くして、死ぬことばかり考えていた思春期に、宝石商をしていた父親が手を尽くして、左眼とおなじ色をしたブルーサファイアを手に入れると、シカゴの街で義眼を作ってくれたのだという。
「不自由だな。」
「そんなことない、よく見えるのよ。この眼……。」
女は食器棚の抽斗をあけて、黒い筒のような望遠鏡を手にすると窓辺のベッドに腰かけた。
「なんだ、それ……ガリレオ式か?」
「そ、カリブの海賊が使ってたやつよ。」
オレンジ色に染まりはじめた海の彼方に女は望遠鏡を向けた。金色の産毛がかがやく女の腕に絡み取られたガリレオはうれしそうに見えた。
「なあ、あんた。もうひとつ聴いてもいいか?」
「なあに?」
「俺といっしょに旅する気はないか?」
「旅? あなたと?」
「いやか?」
「ううん、いやじゃないわよ……でも、あたし雨の日は苦手なの。」
「雨の日?」
「そうよ、旅したらどうしても雨に濡れるじゃない。あたし、雨の日は外に出たくないの。」
「あんた、上手いな。」
「なにが?」
「断り方がさ。旅に誘われたのは俺がはじめてじゃないだろ?」
「ないわよ。だって、誘われたからここに来たの……雨は降らないからって。幸せにするからって……みんな嘘だったけどね。あたし、騙されやすいの。」
「それはさ、仕方ないよ。」
「あら、どうして?」
「あしたの天気なんてだれもわからないだろ。人間はさ、観念的に生きるしかないんだよ。」
「カンネンテキ? なにそれ。」
「人生は成るようにしか成らないってことだよ。俺の未来も、あんたの未来も、見ることはできないんだから。」
「ん、そうかしら……。」
「それでさ、その男、どうした?」
「行っちゃったわ。雨の日にね。」
「雨の日か……あんたやっぱし猫だな。じゃあさ、また逢いに来てもいいか?」
「だれに?」
「あんたにだよ。」
いいわよ……。
感情を押し殺したような、気のない返事を男に返して、女はふたたび望遠鏡を海に向けた。
錆びたひかりと青い闇が混濁した海だった。
まるで眼を閉ざした砂漠みたいだと男はおもった。
「なにが見える? キューバか?」
「ううん、アフリカよ。」
「アフリカ? おいおい、ここはカリブの海だろ。そんなの見える訳ないじゃないか。」
女はよくうごく左眼をつむってウィンクすると、悪戯っぽい笑みを男に返した。
「海の向こうはアフリカよ。それでね、ここは地中海の島なの。ね、あなたはいつかアフリカで死ぬの。だから、行っちゃだめよ。地中海も、アフリカも。」
男はあたらしい葉巻の吸い口を噛み切って苦笑した。
「あんたさ、俺はどこで死んでもいいけど、ほんとにアフリカなのか? ちょっと、いやな気分だな。」
「どうして?」
「死んだら、すぐに腐るからさ。」
じゃあ、もういちどたしかめてみるわね……。
右手で支えていた望遠鏡を左手に持ち替えると、左眼をうすく閉じて女は、右手を添えた接眼レンズを右眼に当てた。すると、海のなかを覗くような青い視野のなかに、女を抱いた男たちの未来が見えるのだった。
一年後、男はカイロで客死する。
散文の海へ10
ひとは今日という日を見ることができない。
今日という日はあしたにならないと見ることができないのだ。つまり、今日という日が過去になれば、ふり返って見ることができるということだが、そうなると見ることのできない今日という日は未来なのだといってもかまわないだろう。それで、今日という未来を生きるのであれば、ひとは観念的に生きるしかないということになる。記憶のなかの日々を辿れば、たしかにわたしは生々しく生きて、今日という日を積み重ねて来たといえるが、観念的に生きたという実感はどこにもない。汗と涙を拭ってけんめいに生きてきたからだ。しかし、過去にあるものはすべて具象化された記憶であって、今日という日はそこに含まれてはいないし、観念的にしか捉えられない未来はすべて抽象の世界であって記憶にはならない。
たとえば、今日という日が目のまえを流れる映像だとすれば、わたしは時間とともに変化する画面のなかの被写体でしかないし、その被写体を見つめるわたしの意識は、画面の外に存在していて、わたしなんだけれどわたしではないような、どこか寂しげなわたしを見つめている意識だけが追いかけて来るのだ。そんなわたしの意識がどんな場面に遭遇しても、意識でしかないのであれば観念的でないと、抽象から具象へと変化する一瞬の瞬きを捉えることができないはずだとおもう。その一瞬の瞬きが途切れることなく今日という日を積み上げて、過去になり具象化されてゆくのだから。まるで新作の映画を観るように。
そうなると詩や小説もおなじで、一行先は未来であって読むことができないから、いま目で追っているこの一行を観念的に捉えながら、つぎの一行を予見しつつ具象化しようとするが、その一行先がどこまでもつづくとしたらそれは終わりのない小説、つまり、わたしの一生は小説ではなく詩であるということになる。
しかし、それでいいのかというといいともいえない。わたしの一生が詩であるとしたら、一つ困った問題が生じるのだ。
詩は発見であるともいう。
発見がないと詩は書けないという意味だが、たしかに詩が生まれる背景にはさまざまな発見がある。では、小説を書く場合はどうだろうか。発見がなくても小説は書けるような気がするし、小説は発見だ、とはいわない。しかし、実際に小説を書いてみると小説にも発見があることがわかる。小説は書き終えたあとに発見があるのだ。それは作者が予期しなかった結末というか、書き終わらないと見えてこないもの、たとえば、物語の隠れた主題であるとか、主人公がだれであったのかとか。作者自身も気付かずに書かされていた、というふうに、書き終えたあとに発見が生まれるのだ。
発見から書きはじめる詩、書き終えたあとに発見が生まれる小説。どちらも発見にはちがいないが、詩人が生涯を終えてメモ帳を閉じるとき、もしそのあとに発見が生まれるとしたら、詩人はその発見を見ることも読むこともなく死ぬことになる。そうなるとわたしは困るというか、全然面白くないから、いまこうしておかしな小説を書いているけれど、これを書き終えたあとにどんな発見があるのか、ないのか、まだ途中だからわからないが、わたしの希望としてはなにもない方がいい。もしあったら、ほんとうに困るとおもうから。
それで話しは前後するが、詩の「発見」についてもう少し具体的に書いて見ようとおもう。けっして難しい話しではない。日常のなかでだれもが体験することだ。たとえば雨の日に海を見ているとふとおもう。数千年前の縄文時代にわたしは、というか、わたしの祖先は生まれたのかも知れないと。そうなるとわたしの意識は縄文時代へと飛んで行くのだが、もちろんその先はわたしの妄想の世界だ。問題はなぜ縄文時代なのかということ。縄文時代でなければいけない理由が、このわたしにあるのだろうかということだ。理由はごく単純でもかまわない。ひとにはかならず好き嫌いがある。縄文人や縄文時代が大好きでたまらないというのであれば、それだけで詩を書く理由になるのだ。
詩人はいつも探しものをしている。探しものをしているからこそ発見なのだとおもうし、詩人は好奇心の塊だともおもう。詩心なんていらないのだ。わたしにとって詩を書くこころは好奇心と恋心だけ。フリチンで肉を喰う熱情的な恋心だけが詩を生むのだとわたしはいいたいが、そんなわたしの日常を語れば詩になるような格好の良いものではない。
わたしの探しものはゴミ拾いとおなじ。つまり、わたしという詩人はゴミ拾いが好きなだけなのだ。
あしたのりんご
あしたを夢見るひとの、今日という日はどこにあるのだろうか。
日が暮れたばかりの今日という日が、古新聞みたいに積み重ねられ、今日はいつからきのうになるのだろうかと、ぼんやり、考えはじめたら赤信号の交差点で立ち止まるひとも、ハンドルを握るひとも、すでに今日という日を見失っている。たぶんひとは、今日という日はなかったことにして、生きているのだとおもう。息をすることを忘れて生きるみたいに、それは、思い悩んではいけないことなのだ。
「テーブルの上に、あした買ってきたりんごを置いてある」と、母は言う。
今日という日をなくしたひとの、あしたはいつも「きのう」で、きのうはいつかやって来る「あした」だとしたら、今日という日はやっぱし、どこにもないことになる。テーブルの上のりんごは、母だけが見ることのできるあしたのりんごだと、私は知っていても、「かあさん、それ、きのう買ってきたりんごでしょう?」とは、言えなかった。いつか私も、あしたのりんごを食べてみたいと夢見ていたからだ。
今朝も雨みたいだ。カーテン越しの窓の外はそんな気配だった。桜の季節はいつも雨に邪魔されるけど、お花見は好きじゃなかった。久しぶりの休日だし、すべては雨のせいにして春眠を味わうのもいい。たまには御褒美がほしい発育不良の大人だったから。
九時すぎに目覚めた。母とふたり暮らしの部屋はマンションの五階にあって、休日の午前はパジャマの上にカーデガンを羽織って過ごす。なにひとつお洒落はいらなかった。
うす暗いリビングの窓辺のソファに腰かけた母は、新聞の折り込みチラシを床にひろげて、熱心に覗き込んでいた。新聞は読まない母なのに、折り込みチラシは一枚残らず目を通すのだ。
「かあさん、おはよう」
「あら、圭子……まだいたのかい?」
「きょうは休みなの。ね、ゆうべ言わなかった?」
「ううん、聴かなかったわよ」
頑固なひとは痴呆になりやすいってほんとうだろうか。灯りを点けて母の顔を覗くと、うれしそうに目を細めて言った。
「ねぇ、圭子。きょうはいい香りがするでしょう?」
朝寝した朝はいつも鼻づまりがした。
「なんの香り?」
「あした買ってきたりんごよ。ほら、そこに置いてあるでしょ。甘いわよ、きっと」
リビングのテーブルの上には、浅い笊に盛られた黄色っぽいりんごが置いてあった。青森産の玉林だろうか。ひとつ手にとって汗ばんだ鼻に押しつけてみる。
「ほんとだ、いい香りがする……ね、どこで買ってきたの、これ?」
「ほら、あそこ。林果物店……」
林果物店は私が幼いころにすごした街にあって、果物の好きだった父のために母が通ったお店だった。いまはもうその街を訪ねても林果物店は見つからない。
母の外出はなるべく避けたかったから、日用品や食料はすべて私が用意して、不要な母の外出を摘まんでいたけれど、仕事のある私にはとても無理な話しだった。ときどき、母は気ままに出かけては、近くのスーパーマーケットで果物を買ってくるのだった。
久しぶりに母とお昼ごはんを食べる。私には遅い朝食になるけれど、たぶん、母も朝食はとっていないはずだった。今朝の母はすこし痩せたのかなって気がする。厚切りのトースト三枚を一枚半ずつに分けて、卵二つ落としたハムエッグと、夕べの残りもののジャガイモサラダに、コンソメスープと、母の好きなミルクティー。コンソメスープにはりんごが入っている。テーブルのりんごをスライスしてレンジで焼いたものだ。
「圭子、パンは一枚でいいのに。卵だってさ、二つもいらないわよ。あたしはひとつでいいのよ」
「だめ。お昼ごはんなんだから、たくさん食べなきゃ、まだ十一時よ。お腹空くわよ」
窓の外が明るくなって雨は止んだみたいだ。
午後は晴れそうな気がした。
「ね、かあさん。お買い物に行かない? なにかほしいものあるでしょう」
「買い物かい? そうねえ……」
母はテーブルの上のりんごをじっと見つめてしばらく思案していた。
「りんごはもう買ったし……」
「果物じゃなくて、ほかにあるでしょう? 今夜のおかずとか……あ、そうだ。春物のカーデガンなんかどう? ブラウスでもいいわよ」
「ブラウスならいっぱいあるじゃない……それにさ、あしたはまだ寒かったわよ」
「あしたは寒くても、きょうはあったかいでしょう。たまにはおしゃれしなきゃあ、ね、老けちゃうわよ」
「いいのよ、あたしだったらもう……圭子、おしゃれするのはおまえじゃないのかい?」
「あら、そうなの?」
とぼけてみたけど、母は母なりにこっそり娘を見ているのだ。的を得ているとおもった。
「そうだ、かあさん。駅裏にね、新しいショッピングモールができてるのよ」
「チョッピングモール?」
「かあさんのほしいものはなんでも揃ってるとおもうけど」
「じゃあ、淡路の無花果あるかしら」
「無花果? そんなのまだ早いわよ。果物はもういいから、とりあえず今夜のおかず。かあさん、ゆうべはなに食べたか覚えてる?」
「ばかだね、おまえ。きのうのことなんかわかんないわよ。あした食べたものなら覚えてるけどさ」
三年前に父を亡くして、母の痴呆はそのころから始まった気がする。痴呆と言えば暗いイメージしかないけれど、母の痴呆は、あしたと、きのうが入れ変わっただけの、幼くてかわいいものだった。
ひとはいつも夢見て生きている。
母の夢見るあしたは父と暮らしたきのうなのだ。もういちど父に出会いたいのだろう。父と暮らしたきのうが、途方もなくとおい時空の浅瀬を一巡りして、あしたになると信じているのかもしれない。娘の夢見るあしたさへ、まだ来ないというのに。
夜勤もあるシフト制の通勤に車は欠かせなかった。その車は私の通勤着とでも呼べる黄色いラパンだ。助手席に母を乗せて、後部座席にはショッピングモールで買い込んだ衣服の春めいた紙袋とか、飲料水のペットボトルや牛乳パック、三日分の食材の入ったレジ袋などがならんでこぼれ落ちそうだった。
街中の路面はまだ濡れている。
「かあさん、かわいいブラウスが見つかってよかったわね」
「そうねえ、まだ着れないけど……」
うれしくても、うれしそうにしないところが頑固者なのだ。
信号待ちの交差点でスマホが鳴った。
「圭子。電話だよ」
「あ、いいの。ラインだからだいじょうぶ」
発信者はわかっていた。
「ラインは出なくてもいいのかい?」
「急がないときはラインなの」
「ややこしいのよ、それって。だからあたしは嫌いだよ」
母にもスマホは持たせてある。もしものときに位置情報を得るためだった。
「ねえ、圭子。あしたは誰かと会ったのかい?」
「え……」
母はどことなく遠慮がちだったけれど、私は一瞬うろたえてしまった。
「どうして?」
「だっておまえ、あしたは早出だったのに、帰りが遅かったじゃないか」
たしかに遅かった。
父も母も晩婚だったけれど、七十をすぎた母とふたり暮らしの娘の歳は、言わなくてもわかる。そんな私にようやく彼氏と呼べる男ができて、いつか母に打ち明けようと思っていた。
「ね、かあさん。久しぶりだから、喫茶店に寄ってお茶呑んでいこうよ」
「喫茶店? まただれかと会うのかい?」
母はもう気づいているかもしれなかった。
「うん、そうよ。かあさんも会いたいでしょう?」
「だれに?」
「私のボーイフレンド……」
「いつ?」
「きょう、これからよ」
「……」
「いやなの?」
「ん、きのうなら都合がいいんだけど、あたし……」
「また、そんなへんなこと言って。ね、行きましょう」
街中を抜けて海岸通りに出ると、彼が営む喫茶店があった。マッチ箱みたいなちいさなお店は、いつも潮風に吹かれてハミングしていた。どうしても、まっすぐ家に帰りたくなかった師走の夕暮れ、私は初めてそのお店にラパンを止めた。そして、彼と出会った。
「いらっしゃい!」
お店のドアをあけるといつもの元気な声がした。
ラパンから降りる母の姿を彼は見逃さなかった。満面の笑みを浮かべて彼は、海の見える窓辺のテーブルに母を案内してくれた。
「ね、なにがいい? かあさんの好きなプリンもあるわよ」
「……あたしはミルクチィーでいい」
どことなく不機嫌そうだったけど仕方ないかも。お店には彼ひとりしかいない。バイトのひとはもう帰ったみたいだ。
「ねぇ、圭子。ボーイフレンドって、あのひとかい?」
「うん、そうよ」
「でも圭子……あのひと、もう禿げてるよ。いいのかい?」
「うん、いいの」
母の言い草があまりにもおかしくて涙が出そうだった。
「お待たせしました!」
アッサムの紅茶と、うすい小皿にのったアップルパイがテーブルに並んだ。母は紅茶を啜っただけでアップルパイには手をつけなかった。
「ね、かあさん。これね、彼がつくったアップルパイよ」
「……」
拗ねたこどものような顔をして、アップルパイを見つめていた母は、何をおもったのか小皿を両手に持って鼻を近づけた。
「あらっ、これ……あしたのりんごだわ」
「え……」
一瞬、なんだかわけがわからなかったけれど、母はアップルパイをつまんでひと口齧ると、目を細めて笑った。
「うん、おいしい!」
テーブルの上のあしたを母はおいしいと言って食べたのだ。おもわずVサインして、カウンターの中の彼にウィンクしたら、ほんの少し、涙がこぼれてしまった。
まだ桜の季節だというのに初夏の香りを運ぶ潮風に乗って、私の夢見たあしたが、ようやくやって来たのだ。母の大好きなあしたのりんごを連れて。
散文の海へ11
猫又木浜海水浴場の駐車場は、十二、一、二月の三ヶ月間は閉鎖される。従ってわたしたちは長い冬休みを過ごすことになるが、倉庫の詰め所に暖房設備のないことをおもうと、それは至極当然だった。なにしろ十一月の倉庫ですら寒くて耐えられないのだから。
その長い冬休みもすぐに終わった。この歳になっても冬休みは学生気分でいたからだ。
三月。公転軌道をひと回りしたビーチには塵みひとつ落ちてはいない。あの夏の日の回遊魚みたいな塵みたちはどこへ消えたのか。嘘みたいにきれいだ。去年の塵みの記憶はなにもかも波が浚い尽くして、この星はまた一から出直すつもりなのだろうか。だとしたら、このわたしも一から出直せばいい。そう、おもった。
北のトイレ掃除を終えたあと、火バサミと黄色いゴミ袋を持って、わたしひとりがビーチをあるく。上田さんと中川さんは駐車場の塵みを拾いあつめているはず。北西の季節風に背を押されて南に向かってあるく。日差しはあったかくても風を受ける頬はつめたい。マスクはしない。見渡す限りだれもいない。どこまでも、砂と汐。ひともウイルスもいない。だからどこまでもあるいて行けるはずなのに、塵みのないビーチはあるけなくてつい立ち止まってしまう。それはあるくための目標がないということなのだ。
ひとのしくみって、ずいぶん安上がりだ。歯車は多くてみっつ。はたらいて。食べて。寝る。そうしていつか、その歯車がすり減って動けなくなるのであれば、わたしはこのまま砂になりたいとおもう。砂になって海に帰りたいとおもう。
でも、ひとは砂にはなれない。いつか、どこかで分別されて燃え尽きて、骨になって、骨は雨水に溶けて草木の肥やしになる。ほんとうに後始末も安上がりなんだ。
文字通り家族となってわたしと生きた赤い雄犬も、白い雌犬も、ちいさな炉で焼いて骨は河口の橋の上から海に流した。それがわたしの理想だった。
骨になって海に帰りたい。
こうしてビーチに立って海を見ていると、せつじつにそうおもうけれど、もし、わたしの足元に砂がなかったらどうだろうか。素直にいうと海だけだったらつまらない。いまここに立つわたしは魂と語り合いたいからだ。魂は海の向こうの黄泉の国からやって来て、磯辺の砂や玉石に宿るのだという。そのイメージの源は米粒みたいな白い骨なのかもしれない。ビーチの砂には骨になることのせつじつ感が潜んでいる気がする。でも、とまたしてもおもう。
ひとは砂になれない。ひとは塵みにしかならないのだ。
四月生まれのわたしはもうすぐ古希を迎える。おのれの生涯を見渡せる山の頂に立つのだ。見渡せるというのは過去ばかりではなく未来も含んでいるということ。つまり、おのれの死に際がほぼリアルに映像化されるということで、そうなると、どうしても知りたくなるのがわたしに残された時間になる。
日本人の平均寿命は男八十三歳、女九十二歳だという。だとしたら、わたしの余命はあと一三年になる。そんなの嘘だろといいたくなるが、目一杯オマケがついたとしても一五年だろう。というか、古希が過ぎたら残り時間はすべてオマケなんだとおもうのがいい。なんとなく得した気分でいられるから。
でも、オマケ気分で生きられるかというとそれこそ嘘になる。わたしにはまだまだ追いかけたい夢がある。夢の入口にはいつも塵みが落ちているのだ。塵みは拾ってなんぼ。わたしの夢はそこに塵みがあるから追い続けることができるのだ。もし、その塵みがなくなったら、わたしはやさしく老いることもなく塵みてしまうだろう。
困る。それだけは困るのだ。
なにひとつ拾う塵みのない老後なんて考えられないのだ。だって、塵みがなかったらわたしは詩が書けないのだから。最期の晩餐はローストビーフと決めているが、その晩餐の日まで、わたしはオニヒトデのような年金詩人でいたい。キモチワルイといわれてもかまわない。それがわたしなのだから。
もういちどいう。
嘘みたいにきれいだ。
三月のビーチにはなにひとつ拾う塵みはない。拾うものがなければ捨てろと海はいうのだろうか。なにもかも捨てて散文の海へ帰れというのだろうか。だったらもう、あっさりこのわたしのいのちひとつ捨てるだけでいい。
わたしの詩は燃える塵みでしかない。
夢の入口にさいごに残った塵みは、どこまでも分別を拒みつづける、わたし自身のいのちだったのだ。
縄文の犬
わたしは縄文の舟を漕いでいる
クスノキを刳り貫いた
粗末な舟だ
赤い犬をいっぴき乗せていた
これが最後の猟だと
わたしはおもった
子どもたちは
夏の来なかった時代を知らない
もう
危ない猟をしなくても暮らしてゆける
海はあんなに近くなって
魚も貝も
たくさん獲れるようになった
おい、骨になるときは一緒だぞ
わたしの低い声に
赤い犬はふり向いて
かすかに笑った
舟は河口の葦辺を渉りきって
深い森に辿りついた
穏やかな春の朝だった
雨は詩歌。
雨はメタファー。
雨はあなた。
散文の海に生まれた
わたしたちが等しく
詩人であったことを
忘れないでほしい。
(完了)
あとがき
この小説に挿入した詩作品は、そのほとんどが現代詩フォーラムに
発表したものです。また二編の短編小説は、時空モノガタリに投稿
したものを加筆しています。
原稿用紙換算で150枚余りになったこの小説は、このまま一字残
さず、私の最後の詩集となるはずですが、出版費用の目処が立たず、
パソコンの抽出で冬眠したままです。
それで現代詩フォーラムに投稿して、皆さんに読んでもらおうと思
いました。長編でしかも読みにくい小説です。お読み頂いた皆様に
は、心から深く感謝いたします。
この小説をさいごにしばらく休眠いたします。それは私の新しい詩
を模索するためです。
現代詩フォーラムの皆さんには、益々のご健筆を深く祈念しており
ます。どうか皆さん、お元気でいてください。
またお会いします。
2024/06/13
くりすたきじ