(n((o),(w)),)(h)ere)詩人はきっといつか詩を書けなくなる
竜門勇気





nowhere
15年飼っていた猫が死んだ。
5月8日、18時50分頃。
もうどこにもいない。冷蔵庫の上にも、出窓にも、いない。
nowhere

no here
最後の日に、スタンド・バイ・ミーを膝の上にのせて歌った。
歩くことができなかったので、ベッドから降りようとするたびに
抱きかかえてトイレに連れて行ったが、一度もおしっこをしなかった。
前日、トイレを覚えてから初めて犬用のマットの上で真っ黒な柔らかいウンチをした。
這いずってもトイレに行こうとする。
水飲み場で水を飲み込む力が出ずびしょびしょになった口と胸元を毎日拭いては
ぼくのくちびるを湿った口元にこすりつけた。
親猫だったらこうするだろうと思うことをした。
口元をくちびるとほほで拭った。耳の付け根を鼻先で嗅ぎながら拭った。
少し目やにが浮いた目元を小鼻や眉間で拭った。
暖かいにおいがした。ほとんど毛が抜けなかった。
2か月前に闘病が始まってから、不思議なほど毛が抜けなかった。
今、ここには何もない。
冷蔵庫の上にも、出窓にも、膝の上にも、、部屋の中にも
ここには何もない。
no here

now where
今はどこで、何を思っていて、どう存在しているのだろう。
これほどまでに強く探しているのに、見つからない。
火葬場で、毛むくじゃらが、白い骨になったのをみた。
抜け毛と、足に刺さった鋭い爪と、小さな指の骨と、焼かれた爪が
同じアクリルのケースに入っている。
まだ、小さな陶器に入ったすべての骨も部屋にある。小さな祭壇の上に。
小さな祭壇の上に、すべてがある。存在のすべてが。
けど感じる。冷蔵庫の上、出窓のカーテンの向こう
階段を上がる布でできた水滴が落ちるような足音、膝の上の暖かさ。
とても強く感じる。幻覚だとわかっているのに。
何がそれを見せているか考えて、ぼくはそれを受け入れた。
もしも、誰にも見えない猫が見えてしまったとしても、受け入れる。そうする。
たとえ、それがどんなに世界を不幸にするとしても、そうする。
ぼくは世界なんて不幸になってしまえと思ってる。
早く来てくれ、まだ間に合う。今どこだ?
早くしてくれ、早くしてくれ、ぶっ壊れそうだよ。
now where

now here
ここで感じるものはこれですべて。
夜勤の三日目だった。仕事中、なぜかスタンド・バイ・ミーが頭の中で流れていた。
スタンド・バイ・ミー
スタンドバイミー
そばにいて、そばにいて、そして、そばにいてくれ。
きみがいればぼくは無敵だ。すべてのろくでもないことも、どうでもよくなる。
きみがいるからな。細かいことはわからないが
どうでもいいことなんて、どうなったっていいんだろ?
どうなったって、きみがいたからな。
力の入らない体で横になった姿に声をかけた。
一緒に寝る?どうする?
にゃお。
闘病が始まる前からのやり取りを久しぶりにできた。
気分じゃない時は返事をしてくれない。
いつものようにドアを開けて先に階段を登らせる代わりに抱き上げた。
いつものように何段か上がってはこちらを振り向いて目を合わせる。
その代わりに頬ずりをした。
にゃお。
階段を踏む。にゃお。階段を踏む。いつもよりゆっくり踏んだ。
now here

no were
二時間おきに目を覚まして、水飲み場やトイレに抱いて連れて行った。
本当にそうしたかったのかわからない。
想像の中の猫がどう思っているかすら、何もわからなかった。
目の前にいる猫の気持ちもわからないのに。
トイレでもない、水でもない、ご飯もいらない。
ペーストやドライフードや、大好きだった鯛の刺身。
ジャンクなおやつ、介護フード、猫用ミルク。
温めてみよう、みんなが一緒に食事している時には食べるのかも。
絶食二日目、ついに強制給餌もしてしまった。しなければよかった。
夢の間に、取り返しのつかないなにかが近づく想像をする。
取り返しのつかない想像。最後が何かを想像する。
頭の中にいて欲しくないものを抱え込んで、それが不要なものだという現実を想像する。
きみを抱きしめて鎖骨のあたりに押し付けられるあの暖かい小さな手のように
穏やかに、しっかりと遠ざけていたあれを、想像する。
それが何かはわかっているが、理解したくはない。認めたくもない。
でも。今日ではないと思っていた。
明日かもしれないし、近く訪れることだとまでは飲み込めていた。
明日が来て、また、この苦しさに酔えると思っていた。
no were

(n((o),(w)),)(h)ere)
時計が進まない。
10分ぐらいの跳躍はあるが細切れになった睡眠もあいまって
ぼくのわき腹で寝息をたてる猫がいることを確認しては
寝返りをうったり抱きしめてみたり頭からお腹まで手のひらを滑らしたりした。
5時になった。地域の事情で据えられたスピーカーから
昔のヒットソングのメロディが流れる。
目を覚ました猫が寝ぼけながら僕の顔を見た。
瞼に手のひらをそっとあてて撫でた。少し前から黒目がちになった眼を閉じて
うるるるる、と鳴いた。
この2、3日前からよく声を聞かせてくれるようになった。
闘病が始まって、あまりなかなくなっていたので、もしかして、と思っていた。
「生命力が強い子ですから、まだ、可能性はあります。いいこだね。」
家でする注射も、点滴も迷惑そうな顔をしていたけれど、いやがらなかった。
いつもは19時ぐらいに起きるのだけど18時半頃、猫が起きたのが分かった。
ベッドから降りてぼくがいつも座っている座椅子に寝そべってた。
寝不足のせいか逆に目が覚めて、ぼっさりと布団をのけて声をかけた。
「降りる?」「のどかわいた?」「トイレ行く?」
返事はない。
抱き上げると、座椅子に爪を立てていてばちばちと音がした。
まだ、ぼくは今日がその日ではないと思っていた。
1階のトイレに下ろすとそのまま猫は崩れ落ちた。
ウンチ回収用のスコップに顔を突っ込んで。
慌てて抱き上げて声をかけた。
「おう、どしたんなら。だいじょうぶか?みずじゃったか?」
むすりとした顔でぼくを見ていた。
ソファに座りうるるるる、と言う猫の背を撫でた。
ちょっと不満な時に言うあの声に聞こえた。
猫の顔に頬を擦り付けた。二言三言何かを言った。
「どしたんな、どしたんな」
そんなしょうもないことだ。
顔を離すと半開きになった口が見えた。
近くにいた母に精いっぱい押しつぶした声で言った。
「今日かもしれない」「これからかもしれない」
職場に電話をして、今日猫を看取ることになるので休む旨を電話した。
少し苦しそうに息をしていた。
2日の絶食、焦って昨日上あごに何度かペーストのフードを給餌した。
2度。いや3度。食べてくれるのがうれしくて、3度目をしてしまった。
十分に周期はおいたはず。咳いてもいなかったし。
自分を死の責任から遠ざけるために頭が回った。本当に情けないことのために頭が回った。
そして同時に、その情けなさを裁くためにも頭が回った。死はそこにあるのに。
今ここにいるのに。愛していることが分かっているのに、死はそこにいるけど、すぐそばにいるけどここにまだ死は訪れていないのに。
膝に猫をのせて、耳の後ろから背中まで撫でた。
急に猫が咳きこんだ。餌を吐くときとは違う。水のようなものをスプーン一杯ほど吐いた。
必死になって撫でていた。無我夢中で撫でていた。
取り返しのつかないなにかがここに来た。奥歯が音を立てるほど食いしばったが涙が滑らかな毛の上に飛び散った。
何かを否定したいのか首を振っていたらしい。
抱きかかえた首から力が抜けていたのが分かった。
母は昔から、死んでしまった生き物の姿が苦手だと言っていた。
「猫が、ああ、猫が、ああ、」と猫を抱いているぼくに
「みたくない!」と言ってどこかへいこうとした。
トイレか、物置か、この部屋ではないどこかへいこうとして立ち上がって歩き出した。
ぼくは褒めてあげて欲しい、と叫んだ。
いっぱい頑張って今日まで生きて一緒にいてくれたのだから、
「まだ聞こえてるから!まだ伝わるかもしれないから!」
母猫に見捨てられた後、我が家にきて
少しずつ分かり合いながら生活をして
どんな時もこの家の中で、喧嘩したり、寄り添ってみたり、
お互いに通じない言葉で話し合ってみたり、
分かり合えないこともあったけど、与えあったことのほうが多かった。
母は戻ってきて、たくさん猫をほめた。
ぼくも同じぐらいたくさんほめた。
ふたりでたくさん、ありがとうといった。
一緒にいてくれてありがとう。生きていた時の父と遊んでくれてありがとう。
つらいときそばにいてくれてありがとう。そうでもない時も一緒にいてくれてありがとう。
一緒にいれてたのしかった。いつもそばにいてくれてたのしかった。
あなたに愛されてうれしかった。あなたを愛せてうれしかった。
あなたがいて、本当にたのしかった。あなたがいる人生で、本当によかった。
本当はこんなにたくさんの語彙を使えるほど聡明じゃないから、
同じような言葉を必死で繰り返しているだけだっただろう。
けど、ぼくはこんなに必死に叫んだことはなかった。
父の死の際もここまで大きな言葉は使わなかった。
父の死が末期の肺がんで、最後の数週間は意識のない状態でいたことが
心が”死”をゆっくりと得心できる時間を作れて、
穏やかな、変化のない呼吸をしているか否かの変化に落とし込めていたのかもしれない。
しかし、さっきまで座椅子に爪を立て抱き上げると文句をいっていたのに、
抱き上げたぬくもりを膝に残したままで冷たくなっていくきみは、
あまりにもさっきまでの日常と違いすぎるよ。
呼吸が止まって1時間。ずっと二人で叫び続けていた。
(n((o),(w)),)(h)ere)

そして、僕はこの心について、気持ちについて、
すべてを解き明かして、一つの詩にしようと思った。
いろんな人が読んで、つらい気持ちを和らげたいと思った。

そして、ぼくはこのきもちについて
詩にするのは良くないと思った。
ぼくはこのきもちを、詩にはできません。
たぶん、今まで、楽しいからそう言って、まねごとをしているだけで
ぼくは詩人なんていいものじゃなかったんだと思います。


散文(批評随筆小説等) (n((o),(w)),)(h)ere)詩人はきっといつか詩を書けなくなる Copyright 竜門勇気 2024-05-19 15:26:36
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