なぜ美男美女がモテるのか?
森 真察人

生存のしやすさに直結する能力は知力、身体能力、コミュ力だろう。

だから普通に考えれば、賢さ、肉体の強さ、コミュ力の高さを重視して相手を選び繁殖すべきだと思う。

しかし今日モテる、つまり繁殖に有利な人間に美男美女が多いのはどういうことだろう。
顔立ちに前述の能力のパラメーターが表れているのであれば、つまり顔立ちの良い人ほどそれらの能力が高いことが自明であるならば、美男美女を人が好む理由もわかる。けれども顔立ちは顔立ちそれ自身以外に、優秀な遺伝子を当人が持っていることを示さない。

顔立ちが前述の知力・身体能力・コミュ力の高さに応じて現在美男美女とされる人たちの顔に近づくのであれば、顔立ちで人を選ぶ理由もわかる。でも時間・空間が違うと美男美女の基準もかなり違う。時間・空間が違うからといって人間の身体構造(知性含め)が大きく異なるとは思えない。

これはもう顔立ちが知力などとは完全に無関係に、それ自体が価値を有していると考える方が妥当ではなかろうか。

おそらく大昔(先史時代)には、顔立ちなんて気にせず相手を選んでいたのではないか。身体能力、コミュ力、知力の順に優れたものが繁殖しやすかったのではないか(もしかすると知力なんて全く重視されなかったかもしれない)。

農業革命、産業革命、科学革命を経て近代化が進むにつれて、つまり資本主義の台頭に呼応して、新しい価値が求められるようになった。そこで人間の身体の部位で最も目立ちやすい顔立ちに、評価軸が定められたのではないか。顔立ちに評価基準を(明文化されずとも)定めておけば、顔立ちのいい人間(モデルとか)は企業の広告塔として機能し、顔立ちに恵まれない者からの搾取も可能となる。

顔立ちの良さが時間・空間を異にすると異なってくる理由もこれで説明できる。すなわち”美男美女”が多すぎてはいけないから(経済的価値が生まれない)、その時代・国によって最も総数の少ないタイプの顔立ちが尊ばれるようになった。時代や国によって環境は異なるのだから、自ずと人々全体の顔立ちも異なってくる。その人々の中で美男美女とされる顔立ちが時代・国によって異なるのは自明である。

まとめると、美男美女(とされている人々)が知力や身体能力などの生存の能否に直結する能力を持っていることが明らかでないにも係わらず繁殖に有利であるのは、顔立ちそれ自体が資本主義に呼応した共同主観的な価値を有しているから、と言えるのではなかろうか。


散文(批評随筆小説等) なぜ美男美女がモテるのか? Copyright 森 真察人 2024-04-30 19:36:57
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