のらねこ物語 其の十二「金魚玉」(一)
リリー
「茶トラ猫、あの日以来…来ないわねぇ。」
近江屋、厨の上部の隅
かけてあった梯子を床から上げる おゆうは独りごちる
そして 三畳の間に敷かれる煎餅布団に座って
脇に置かれた小さな手洗い桶の金魚を見ている
おりんの背中へ話しかける
「あんたさ、大事にしてた金魚玉、御隠居様にあげちゃったけど。
良かったの?」
「いいのよ。だって、清吉さんが…。」
女中部屋の軒に昼間
冬の水草入れて吊るしてあった金魚玉
昨日 それを遠目で見つけた旅の御隠居が是非譲って欲しいと
店の者へ願い出たのだった
おりんちゃん、しじみ売りの辰坊の母ちゃん病み上がりだろ、
滋養のある物食べてもらいたいなぁ…。三両もあれば長屋の人達も
玉子や魚が買えて助かるよ。御隠居様に、お譲りしよう。
同じのは無理だけど、金魚玉…今度、僕が買ってあげるよ。
「そぉんな、珍しいものだったの?アレって。」
「そうね、分からない。なんでも鍋島藩で作られた金魚鉢らしいわ。」
(実は手代の清吉、このビイドロの金魚玉を辰巳芸者の蔦吉姉さんから、
通りで切れた鼻緒を懐中の手拭い割いて直したお礼に貰っていたの
だった。その話は、また次回語ることにして。)
「明日、御隠居様この部屋で、金魚描かせてくださいって
言ってたわよね…。変な人ね。こんな、ちっちゃな金魚
どうして描きたいのかしらね?」
二人は頭を寄せて 手洗い桶で近頃元気なく
泳がずにいる金魚を眺める
「分からないわ。」
「あんたたち、まだ起きてんのかぁい?」
おきぬが 床の下から早く休めと声を掛けて
厨から離れて行った。
注1)金魚玉=竹棒で軒に吊るす観賞用の小さなガラス鉢。
飼育用の鉢ではない。
(今で言う、水の入った金魚を持ち帰るビニール袋)
風流で、金魚売りから買い求めた。
注2)厨の上部の隅=豪商の屋敷の女中部屋。
台所の上に見張り台の様に、今で言うツリーハウスで梯子を掛け
上り降りした。
注3)鍋島藩(佐賀県)で作られた珍しい金魚鉢について。
嘉永五年(1852年頃)に生まれた佐賀市の重要無形文化財に
指定されている手造りガラス工芸で「肥前びーどろ」のことに、
しておく。
注4)辰巳芸者=江戸時代、深川(後の東京都江東区)で
活躍した芸者のこと。
深川が江戸の辰巳(東南)の方角にあったため、
当時の芸者は辰巳芸者と呼ばれた。
注5)手代=主人から委任された範囲内で営業上の代理権をもつ
使用人のこと。手代の名前の多くは「*吉」「*七」が付き、
番頭に上がると「*介」となる。