りゅうのなみだ
はるな
校庭のいちばん端、フェンスのところにはノブドウとヘクソカズラが生えてた。ノブドウはとくに実がきれいなので特別に思ってた。裏庭のどくだみが茂るところは一部分高くなってて、そこに立つとちょうど図工室が中までみえた。小学校の図工室にしかないあの重たい木の椅子がごろごろ所在なくしているのを。夏になればプールに続く外廊下の端とプールサイドにヨウシュヤマゴボウが生えだして、赤くなるまで待てないで実をむしっちゃうんだね。
それは思い出で、でもいくつも転校するたびついていったむすめの小学校でもたいていそんな感じ。校庭の砂をさらさら捲って透明の粒を集めて「これはりゅうのなみだ」っていうのは知らなかった。土地の言い方なのか、年代を経て生まれたのかどちらだろう。りゅうのなみだ、りゅうのなみだ、あっこれは小さいからりゅうのよだれだね。
人の顏を覚えるよりも、どこになにが生えているのかを覚えているほうが重要、いつも行く婦人科の入り口には嘘の木が立っていて(でもたぶんひんぱんに拭き掃除されていて悪くみえない)、精神科の入り口には妙に生育の良いポトス、診察室には抱えるくらいのがじゅまるの鉢、眼科には植物はなにもない。週に2回出社する仕事の部屋にも嘘のグリーンのアレンジ。ガラスで区切られた「会議室」にはプリザーブドフラワーでつくられた悲しいピンク色のものもある。オフィスはりゅうのなみだはひと粒も落ちてない。これからもたぶんずっとりゅうのなみだはここにはこない。
チョコレートをくばるのと、自分の体をくばるのはほとんど同じことだと思っていた、でもそうではないし、たとえチョコレートであっても無意味にばらまくべきではない。そこらじゅうで発生する齟齬を埋め立てるためのチョコレートだったかもしれないね。
とうとう空いてしまった蓋から中身を取り出さなければならないと思う。開けなくても良かったかもしれないと思う。開けないで一人で腐っていけるならそれも良かったと思う。でもむすめが、りゅうのなみだを持って帰ってくる。折り紙で作った箱やおばけや、あたらしいなぞなぞや、何度も書き直した作文や、そういうものを持って帰ってくる。わたしのところに帰ってくるのだ(すくなくとも、いまは)。そして、ときどき、ほらおみやげままこれ気にしてたでしょ、と言って、ノブドウの実を摘んで持ってくる。いろんな色があったんだよー。と言って。知ってる、と思う。みてないのに、あのフェンス沿いで、色づいた実をみて、ひとつだけ、と言い訳しながら摘むちょっと汚れてる指先を、知ってる。