水の行方
ホロウ・シカエルボク
その日、二ヶ月に渡る療養の挙句に会社に見捨てられた私は、まっすぐ家に帰る気にもならず、電車にも乗らずに当てもなくぶらぶらと歩いていた。田舎の高校を卒業して六年間、特別な野心も意欲も無いまま働き続けた仕事だったけれど、なんとなくそのままずっと続いていくんだろうなと考えていた。まさか、よくわからない不調のせいで仕事を失うことになるなんて考えもしなかった。内科は逆流性食道炎かもしれないと言い、精神科は自律神経かもしれないと言った。婦人科では気になるならどこか大きなところで診てもらった方がいいかもしれない、と曖昧な調子だった。本格的に調べてもらおうか、そう考えていた矢先の会社からの連絡だった。あなたは長く勤めてくれたしウチとしても胸の痛む結論なのだが、無理を強いることも出来ないし今以上仕事が溜まりがちになるならすぐに働いてくれる人が欲しいんだ、御尤もな理由だった。仕事のことは私も気になっていたし、退職金も少し多めに払ってもらえるし、あとひと月半残っている有休もすべて消化して退職してくれ、とのことなので、心置きなく身体を休められるならと私は何の文句も無くそれを受け入れた。残念だが仕方が無い、いままで本当に有難うと社長は嘘の無い調子でそう言ってくれた。私はもうそれで充分だった。私物は特に置いて居なかったので、机はそのまま他の人に渡してもらって構わないと私は言った。事務室には寄らずにそのまま会社を出た。きっとすごく忙しいだろうし、今までの調子から皆が私のことをあまりよく思っていないことはわかっていた―私は、意図的に付き合いの悪い田舎者のスタンスを貫いていたから。オフィス街を抜けて繁華街に入ったところで目を回し、小さな広場の(矛盾する言葉だ)ベンチに腰を下ろしてしばらく休んだ。そういえばこの街のことは仕事場の周辺以外何も知らないな、と思ったけれど動けそうになかった。薬を飲まなければいけなかった。ゆっくりと老人のように自動販売機へ歩き、お茶のペットボトルを買った。バッグから薬を出し、二錠口の中に放り込んでお茶を飲む。ごくん、と喉の奥でもの凄い音がした。凄く喉が渇いていたのだ、とその時初めて気づいた。それから一時間くらいじっとしていると眩暈はおさまった。元気なうちに家に帰らなければ。私は一番近い駅に飛び込んで帰宅した。
三日もすると自由な日々は退屈になった。そもそも私には趣味というものがまるでなかった。週末の休みは溜まっていた洗濯や掃除、休日でしか作れない手の込んだ料理に精を出してばかりいた。だから、何もしなくていい自由な時間に、何をすればいいのかということについてはまるで詳しくなかった。私は常に動いていたい人間だったのだな、とその時初めて気が付いた。どちらかというとのんびり屋だと考えていたから。のんびり屋はのんびり出来ることに疑問を感じたりしない―多分。散歩に出ようと思った。仕事と買物以外あまり出歩いたことがないこの街を、歩き尽くすくらいの勢いで毎日歩こうと考えた。健康にも良さそうだし。自分の歩いた道を記録出来るアプリを導入して、私は毎日自宅の周辺を歩き倒した。それはとても楽しかった。初日はすぐに疲れて止めてしまったけれど、三日もするとすたすたと果てしなく歩けるようになっていた。三週間目には自分の住む街のほとんどを歩き尽くし、私は新たな知らない景色を求めて隣町まで脚を伸ばすことにした。
隣町はあまり大きなところではなかった。都会と都会の中継地点という感じで、小さなビジネスホテルと一軒の本屋、それから喫茶店が三件、あとは潰れてしまった商店が幾つか並んでいるだけだった。そんな街で見るコンビニエンスストアはなにか突然変異で生まれた異物のように見えた。小さな中心地はすぐに歩き終えてしまい、中毒のように新しい景色を求めていた私は街の北にある小さな山を登ってみることにしたのだが―登山道だと思っていた道は実は道ではなく、枯れた水路のようなものだと気付いたときには随分遡ってしまっていた。水路。隣町にある枯れた水路。何かが私の記憶をくすぐった。十年くらい前だろうか、この水路で身元不明の女の死体が見つかったというニュースがあった。当時喫茶店でたまたま手に取ったローカルの新聞に載っていたのを思い出したのだ。そんな些細なニュースを覚えていたわけは、その女性が私と同い年だったせい。そんなところで一人ぼっちで死ぬのはどんな気持ちだろう、と私は記事を読みながら妙に入れ込んでしまったものだった。誰もがのんびりと歳を取って幸せに生きて行けるわけじゃない、そんなことはもちろんわかっているけれど、その女性の死に方は私の心に強い印象を与えたのだ。とり憑かれたのではないかと思えるほど、しばらくの間私は彼女のことを考えていた。もしも時間の余裕があったなら、私は真っ先にここを訪れていたに違いない。そんなひとときの執着をすべて忘れてしまった今になって偶然その場所に辿り着くなんて奇妙な話だった。そうだ、この水路の終わるところ、行き止まりになっているその場所で彼女は死んでいた。私はそこまで歩いていくことにした。
四十分ほど歩いただろうか、ようやくたどり着いたその場所は、あまりにも寂しく、荒れていて、汚れていた。悪趣味な連中がそこを訪れたりしたのかもしれない。スナック菓子の袋やペットボトル、ビールの空缶などが散らばっていた。にもかかわらず、不法投棄といった類のものはまるで見当たらなかった。車が入って来れない上にかなり歩かなければいけないことが原因なのだろう。私は空を見上げた、山の麓にまっすぐ掘り抜かれたその場所の頭上は、木々の枝に遮られながらも見事に同じ形に切り取られていた。何のために作られた水路なのだろう、私には見当もつかなかった。近くに田んぼや畑のようなものは見当たらなかったし、あったとしても山を半周する形で流れている川があるのだからそこから水を引けばいい。こんなところに水路を引く必要はないはずだ。なにかしらの施設を作ろうとして、計画が頓挫したとか、そんな事情があったのかもしれない。なんにせよ、いまそれを確かめる術はなかった。水路の終わりに溜まった落葉が、ちょうどうつ伏せに倒れた人のような形をしていた。それを見ていると不思議なくらいひとりの人間がそこで死んだのだということが納得出来た。私はそこにしゃがみ込み、彼女の最期を写し止めるように降り積もった落葉を眺めた。そして、どうして彼女はこんなところにやって来たのだろうと改めて考えた。自分が死ぬことを知っていたに違いなかった。治らない病気か何かで、死期を悟って、誰にも会わないで死ぬためにここへ来たのだ。まるで野良猫のように―どんな人生だったのだろう。ただ平凡に生きてきた自分と、使われていない水路の終わりで死んだ彼女。私と同い年の。私はなにか、とても心許ない、寂しさとか切なさとか言えるような気持ちでいっぱいになった。幸せな人間が選ぶ死に方ではない。きっと彼女はそれを選択するしかなかったのだ。人生のあらゆる場面で、諦めるしかない選択肢を切り捨てて生きてきたに違いない。それはきっと間違いではないだろうという気がした。私はきっと彼女と同じように、そして彼女とは全く逆の、生きるという選択肢を仕方なく選んできただけなのかもしれない。でもそう思うのはのほほんと生きてきた自分の傲慢なのだという気もした。私はいたたまれなくなってそこを逃げ出した。背中でずっと誰かが私を見つめているように感じていた。水路は長く、荒れ果てていて、ただただ寂しかった。私はいつの間にか走り出していた。幼い頃、人混みの中で両親とはぐれた時のことを思い出していた。私はずっと迷子だったのだ。子供のように声を上げて泣き出したくなるのを堪えて走り続けた。生を選ぶ人間は傲慢なのだ。そんな人間がこの場所で涙を流したりしてはいけないと思った。街は遠かった。誰か人の声が聞こえる場所に行きたかった。頭の中でたくさんの機械音がした。不調がまた私をとらえようとしているのがわかった。それでも私は走り続けた。ようやく水路を抜けて、街の端っこに差し掛かった時、プツンと頭の中で何かが切れて、その場に倒れ込んだ。
道端に倒れていた私は通りがかりの誰かによって介抱され、救急車を呼ばれ、意識が無かったため担ぎ込まれた総合病院でそのまま精密検査を受け、数百人に一人という珍しい病気にかかっていることがわかった。病院にはたまたまその病気に詳しい医師が一人居て、原因を特定するのにさほど時間はかからなかった。ひと目見ただけで見当がついたそうだ。翌日私は意識が戻り、非常に危ない状態だったと告げられた。でももう大丈夫です、と笑うその医師を見ていると、きっと本当に大丈夫なのだろうなという気がした。二週間ほど入院して、あとは月に一度、何度か通院するだけで問題ないだろうということだった。
すべてが終わり、私はもう一度日常を手に入れた。しばらくの間私は、ギリギリ生活出来る程度の短時間の仕事を選び、自分の生活というものを真剣に考えた。ぼんやりと生きていた私は、死んでしまうしかなかった同い年の女性の最期の場所にたまたま辿り着き、そのまま彼女に続いて死んでしまうところだったけれど、生き残った。ただ生きてきただけの人生だった。あなたはなぜ生きているの、と、脳裏に焼き付いた彼女の影は時々私に静かに問いかけた。私はいろいろな本を読み、いろいろなテレビ、色々な映画を観てそれぞれに過剰とも言えるほどの感想を考え、ノートに書きつけた。そうしているうちに私は書くことに喜びを見出し、詩とも散文とも言えない文章をたくさん書くようになった。インターネットでそれを発表してみると、幾人か感想をくれる人も出てきた。それ以外はなんの変化も無い。生活は継続される。でも短いながらも忙しい仕事をこなし、部屋の鍵を開け、テーブルに置かれている一冊のノートを見ると私の心は昂る。私は彼女に話しかける。いつかあなたのことを書くからねと。彼女はなにも言わない。呆れられたりしてなければいいけれど。顔と手を洗い、メイクを落とし、髪を纏め、コーヒーを入れて、テーブルの前に座り、ノートを開く。そこにどんな意味があってもなくても構わない。私はいま初めて、自分が必要と思えるものを手に入れたのだ。
【了】