昔の駄文「私の信条」
佐々宝砂
私の信条、というのは実はおそろしく単純で、ひとことで言える。
「他者を尊重する」
これだけである。だから他者の詩も尊重するし、他者の信条や宗教や思想も尊重する。意見が対立するときは議論するし、つまらん詩に対してはつまらんと言うけれども、他者の存在そのものをおびやかすことだけは絶対にしたくない。この信条の他に、特に議論する際になるべく守ろうと思っている原則がいくつかあって、それは、
「事実に即して具体的にものを言う」
「何かを絶対視しない」
「よく知らないで何かをじっぱひとからげにしない」
なのである。これらの信条だの原則だののいくつかは、「他者の発見」に由来するものだ。以前チャットでやませばさんが、恋愛は他者を発見させるものだから恋愛詩には意味があるんだとゆーよーなことを言ってて、それは私には目からウロコだった。他人が存在してるということ、自分以外はみーんな他人であるということは、私にとってはホントに自明の理だったのだけど、どうもそうばかりではないらしい。
自分に似ているヒトというのは存在する。自分と似たような考えを持っているヒトというのも存在する。そしてひとりじゃ淋しい。だからこそヒトは群れ集うのだけれど、その集団に属するものすべてが均一な人格を持つわけではない。愛し合う家族とてみな性格が違うのがアタリマエ、なのである。だから、母の考えが私と違っても私は怒らない。怒らないできちんと話し合うべきだと思う。母は他者だから。また、ムスリム(イスラム教徒)の誰かがテロを実行したからとて、私はムスリムのすべてを非難したりはしない。ムスリムすべてが均一にテロを支持しているわけではないから。
とにかくまわりはみな他者で、みな自分とは違う。だから自分の恋人のことを考えるにしても、想像力をうんっと働かせなくてはならない。「あのヒトいま何をしてるのカナ」なんて空想するのとは違うよ。私が言うのは、空想ではなくて、想像だ。他者の内面という実際にはわかりもしないことを推測するのだ。たとえば「こう言ったらあのひとはなんて答えるだろう」と推理するのだ。そしてその推理をより完全なものにするために、その恋人のことを知ろうとする。手がかりがなければ、推理は難しいからである。手をつくしても推理推測想像が外れることはままあるが、想像もしないで「あのひとはわかってくれる♪」と思いこんでるよりはマシ。基本的にそういう思いこみヤローはもてないが(笑)。
ビンラディンもまた他者である。私たちが彼の内面を推理するに足る充分な情報を持てないので、恋人よりもわけがわからんだけである。イスラム原理主義もそうだ。日本人はたいていイスラム原理主義のことをよく知らない。テレビやネットで偏ったわずかな知識を得ているに過ぎない。だからわけがわからない。わからないから怖がる。わからないからひとくくりにして否定する。
しかし、程度の差はあれ、わからないのは恋人だって同じである。誰の内面だって、ほんとうはわかりゃーしないのだ。テレパスじゃないんだからさ。わかんないからって他人を怖がってたら埒があかん。怖がっていると知識が集まらないので、余計に怖くなる(そうなんだよ、それが極端にひどくなるとわしみたいに離人症になるので気をつけよう……ま、理論と実践に乖離があるのは仕方ないコトなので、ここんとこは責めないでね、お願いね)。この悪循環を断ち切るためにともかくできるだけ他者に関する知識を集めなくてはならない。
必要なだけの知識が集まらないとしても、想像力を働かすとものごとが裏表両面から見えてくる。たとえば、自分から見たら恋人は他者だ。しかし同時に、恋人から見たら自分は他者なのである。相手に「私」のことはわからないのだ。相手が「私」にとって脅威であるのと同様に、相手にとって「私」は脅威なのだ。だから私は他者を尊重するべきだと思う。尊重しあえないとしたら、ロクな未来はない。
こういうとこに何かを書くとき、どんな人がここを読んでいるか、ほんとうは、わからない。ムスリムも読んでいるかもしれない。そうでないという保証はどこにもない。他者である読者を、私は傷つけたくない。なおかつ私は反論に対する用意もしておかねばならない。また、他者が相手なのだから、明快にわかりやすく書かねばならないと思うし、くどくもなる。
いろいろ考えすぎて疲れるのである。
2001.9.19日に書いたもの