昔の駄文「嫌いなもの」
佐々宝砂

以下は、2001/02/04(日) 00:40:56にメモライズという日記サイトに投稿したものの再録です。何年か前からこーゆーこと考えてたんだよという話です。

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「嫌いな物」 ? うーん。あんまり考えたことないなあ。何が嫌いなのかと言われてもすぐには出てこない。昔はヘンなものが好きで当たり前のものが嫌いだったけれども、最近は当たり前もいいもんだと思うようになった(我ながら大人になったぜ)。

とりあえず具体的に考えてみよう。まずは食べ物。私は好き嫌いがなくて、多少嫌いだとしてもニコニコしながらそれを食べることができるようなタチなので、母親さえ私の嫌いな食べ物を知らん。実は自分でもよくわからん。これじゃお話にならんな。でもって次、ファッション。服装なんてどーでもいいと思ってるから、あまり気にしたことない。昔はぴらぴらしたピンクハウス系の服が大嫌いだったが、今はどうでもいい。ヒトが着るぶんにはああいうのかわいくてよいよ。観賞用には悪くない。んなわけで、ファッションに関しては、嫌いなものなど全くないと言っていい。次、学校の教科。体育が苦手だったが、「苦手」と「嫌い」はちがう。動くのは嫌いじゃなかった。サッカーなんてヘタくそだけど好きだった。他の教科にしても、私はお利口な良い子ちゃんだったから、みんなそつなくこなしまして、特に何が不得手ということもなかった。しかし、手をあげるたび先生に誉められるのに、それでも大嫌いな教科がひとつだけあった。

思い出しました。私が嫌いなもの、それはまず、学校の教科「道徳」として、私に意識された。

しかし、私はアンチモラルのヒトじゃない。私はけっこうモラリスティックな人間である。禁煙のとこじゃ煙草は吸わないし、電車の中では携帯電話を使わないし、人前で化粧もしないし(そもそも化粧って冠婚葬祭のときしかしないけど)、行列には割り込まないし、選挙がありゃマジメに投票に行く。ネットの掲示板に誹謗中傷を書き込んだりしないし、メモライズのテーマ日記ガイド・ラインは生真面目に守っている(つもり)。人を殺したり盗んだり悲しませたり怒らせたりは論外だ。やっちゃいけないことはやらない(ときたま交通違反をするときがあるけど、それがいいことだと思ってしているわけじゃなくて、やっちまったよごめんなさいという感じで反省しているので許してよう)。基本的にルールは守る。人生というゲームにはルールがあった方がうまくゆくし、面白いからな。

私が嫌いなものは、モラルでも、ルールでもない。それじゃいったい、私が嫌いなものって、本当はなんなのか。

それは、「これである」とひとことで言い切ることができるものではない。しかしそれは、ただひとつの根を持っている。私が嫌いなもので人為的なものは、みんなその根から生まれてくる。その根は、自分と自分が属する小世界を愛し守ろうとする/その裏返しとして自分以外の存在を排除しようとする/心だ。一般的に愛は他者を排除する。好きな人とは二人っきりになりたい、のである。そういう心理は、もちろん私にもある。「愛」そのものを否定してしまうつもりはない。私が嫌いなのは「排他」の方だ。私はなるべく「排他」を避けてはいるけれど、ついついやっちまうことがある。そのたび反省する。しかしそれでも個人的な範囲内にとどまっているなら、害が少ないからまだいい。私が死ぬほど嫌いなのは、特に、「排他」が社会的な大きさに広げられた場合のことなのだ。

具体的に、それはどんな現象を引き起こすか。その根からいちばん最初に生まれるのは、差別といじめだ。差別やいじめに正統な理由はない。障害者差別も女性差別も黒人差別も、自分と違うもの理解できないものを排除しようとする気持ちから生まれる。しかし、あからさまな差別やいじめは簡単に承認されるものではない。そこで差別は地下水脈にもぐり道徳を偽装する。偽装を見破るのは困難だ。それはたいてい、「よいこと」を奨励するというかたちをとるからだ。たとえばジェンダーの問題に話を限定するなら、「男らしい男」や「女らしい女」をほめたたえることによって、暗に「女らしくない女」や同性愛者や性同一性障害者を排除する。しかし「男らしい男」にとってみれば、ほめたたえてもらえるのだからこれほど気分のよいことはない。それは彼を安心させるゆりかごとなり、彼にやる気を起こさせ、生きる意欲を与える。そこで彼は「男らしい男を是とする」道徳をおしすすめる。それは容易に伝染し、発展し、類似の道徳を生み、さらに思想や主義や宗教へと進化する。こうなると、もう偽装なのかそうでないのか誰にもわからない。その思想なり宗教なりに一生を捧げる人も出てくるし、大学でそれを研究する人も出てくる。組織化をすすめて学校や病院を作ったり、ボランティアを推進したりもする。もとが何だったとしてもこうなりゃ立派なもんだ。場合によっては、なけなしのお金を寄付してあげようという気にもなる。

思想や主義や宗教。それ自体は悪いものじゃない。私だっていろいろ思想を持っている。主義も宗教も持っている。でもこれを読んでるアナタがジャイナ教徒だとしても、問題はない。紫姑神でもケツァルコアトルでも何でも自由に信じてください。いろんな人がいて、いろんな考えがあるのがよろし。みんなが同じじゃつまらんし、だいいち気色悪い。しかし、そうは思わないひとたちがいる。みんなが同じでないと気が済まないひとたちがいる。それゆえ、思想・主義・宗教の違いが争いのもとになる。要するに、自分とちがう考え理解できない思想を排除しようとして、争いを起こすのだ。差別やいじめと同じ構造である。これこそが、社会的な大きさに広げられた「排他」の最たるものだ。個人のいじめと違ってスケールが大きいから、害も大きくなる。しかも、思想や主義や宗教といった錦の御旗を背負ってるから、もうやる気満々悲壮感たっぷり、思いこみが強ければ死ぬことだって怖くない。むしろ快感。かくして、心をひとつに一丸となって喜び勇んで突入する、戦争、内乱、混乱、報復、あげくの果ては動物以下の暴力拷問強姦略奪ジェノサイド!

この話、例をあげていちいち説明してるとえらく長くなる。かといって、「愛」と「排他」のアムヴィバレンツとひとことで言っちまったら、絶対に誤解される。話を急ぎすぎているから、これだけ説明してもわかりにくかったかもしれない。しかし、私を知るひとにはわかるだろう、これは、私の最大のテーマなのだ。もっとも、私はそれを直接に詩にはしない。詩という芸術と、私の思想とを、どこかで切り離しておきたいからだ。「自分と自分が属する小世界」を大切にする思想に対して、ふらふら揺らぎ続ける分裂解体した曖昧なキメラとしての「私」を主張してゆきたいからだ。しかし、私はどこまでいつまでそれを続けていられるだろうか。私は言うほどに自信満々なわけではない。私はよく落ちこむ。ときには何かに頼りたくなる。疲れて、くらりと倒れそうになる。しかし私は自分で立っていなくてはならない。私が倒れこんでゆくさきは、私が死ぬほど嫌いな、自分の子供「だけ」をあたたかくやさしく抱いて癒やそうとする腕の中なのだ。それは私のうしろに優しく待ちかまえている。いつもいつも。どんなときも。


散文(批評随筆小説等) 昔の駄文「嫌いなもの」 Copyright 佐々宝砂 2005-05-16 16:58:13
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