彷徨いの計器
ホロウ・シカエルボク

床に落ちた鍵には手のひらの切り傷を、コーヒーメーカーは蒸気を吹き上げてる、心臓を病んだ老人の悲鳴のようだ、間接照明のひとつは切れかけている、無音の、ささやかな雷、空気は気象庁が告げたものよりは二、三度は低いように感じる、シフトアップベンチの足元で埃が迷っている、どこかに行ってしまった恋人を街角で探し続ける歌が流れている、窓のそばで女郎蜘蛛が小さな虫を待っている、路面電車の振動、バロウズの寝言、ぼんやりと浮かんでは消えるとりとめもない妄想のせいで、カーテンは虹色の血を流す、レンズの欠けたサングラスとインクの無くなったボールペン、窓の下の小さなテーブルで運命の終わりを待っている、コーヒーメーカ―は仕事を終えて保温以外のすべてを休んでいる、ふたつのマグカップにコーヒーを注ぐ、もう一度注ぎに行く手間が省けるが洗い物は増える、合理的な考えには必ず目的から外れたところに大穴が空いている、いつか一度だけ利用した古いラブホテルの、妙に湿気ていたベッドを思い出す、あそこも今は看板を下ろしてしまった、コーヒーの蒸気にいつも何を期待しているのか、苦笑しながら唇を拭う、窓に積み上げたカラーボックスの隙間から冷徹な朝日がこちらを睨んでいる、反射する光が行き着く先を見たことがない、海の中に落ちていく川のようにそれはわからなくなってしまう、洗って干したペティーナイフの先端から水滴が血のように落ちる、渇いた皿を戸棚に戻していくとき、微量の電流のような殺意が指先で燻っている、いつか訪れた廃小学校の腐り落ちた廊下の一角、そこから異形のものたちが溢れ出す夢を見る、神よ、あなたが宗教にカテゴライズされるというのならば、あなたの言う平等はまったくの嘘だろう、もしもこの世界に大打撃を与えるほどの災害が訪れるのであれば、俺はそれを不幸なことだとは思わない、嬉々として崩壊した街路を駆け巡るだろう、動かせないポインターが立ち並ぶ地図にはもはや何の価値も無いのだ、ふたつのマグカップが水の中に沈められる、水の中で見る夢は音がしないだろうか、ふたつのマグカップは沈没した自分自身についてどんな感情を抱いているのだろうか、沈没したふたつのマグカップの感情は自室で沈殿している俺自身のそれとどれくらい似ているだろうか、解く必要の無い疑問ほど心に棲みつくものだ、手のひらの切り傷はいつの間にか塞がっていた、人間は自分で生き返るように出来ている、一番大事なことは死を受け入れたままにしないことだ、部屋の隅に積み上げられたコンパクトディスクの山がひとつ崩れる、所持していることすら忘れていたラベル、いくら思い出そうとしても一曲目のイントロ以外何も出てこなかった、幾分丁寧に崩れたものを積み直す、いつかこいつらをまた、トレイに乗せたくなる瞬間が来るだろう、音楽は刻まれる、音楽は忘れられる、旋律があり、歌唱があり、バンドの演奏がある、そうした形があって初めて、記憶は語られやすいものとなる、けれど本当は、ひとつひとつがそうした経緯を持っている、それはただ形式として成り立っているか、そうじゃないかの違いに過ぎない、たったひとつの言葉、たったひとつの感覚、ほんの一瞬の景色、ねえ君、俺たちはいつだって、リアルという幻の中で息をしているんだ、そこにはどんな確信も在りはしない、人はいつだって、一番簡単なものに寄り付いて安心しようとする、でもそれは浅瀬だけで泳いでいるようなものだ、息を止め、決意を持って、飛び込んでみて初めて見える景色がたくさんある、すべてのことが一瞬に過ぎないからこそ、一見確かなものに惑わされてしまうのだろう、けれど、いいかい、確信なんて本当は必要ないんだ、そんなもの生きていくことにまるで関係の無いことだ、それは瞬間のリアルにフィルターをかけてしまう、そして一度そうしてしまったら最後、それは二度と外すことが出来なくなってしまう、選択肢は選んでしまえばひとつだ、選ばなければ無数に存在し続ける、安易な人生の模倣に終始するような愚行だけはおかしてはならない、答えを出すのはのちの自分なのだ、数秒後、数分後、数時間後、数日後…もしかしたら数年後かもしれない、事柄によっては、死の間際になって初めて理解出来るのかもしれない、再演不可能な、高速で展開される紙芝居を、どれだけ記憶に留められるか、もっとも簡単に語るとするならば人生とはそういうものだ、手のひらの傷はもうすっかり消えてしまって跡形もない、数分後にはあの瞬間に覚えた痛みの記憶もなくなってしまうだろう、コーヒーメーカーはコンセントを抜かれて沈黙している、サーバーに残った蒸気の粒が、走り終えたランナーの汗を連想させる、俺は服を着替え、部屋の電気を消す、これから出かけるけれど、特にこれといって目的があるわけでもない。



自由詩 彷徨いの計器 Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-10-29 21:45:26
notebook Home 戻る  過去 未来