十月末、心の置き場を探す日々
山人

 早朝散歩を昨日から始めた。昨日も今日も雨。そして今日は寒く、防寒着を着込んで歩いた。たぶん霧の先の見えない山々は白くなっていることだろう。たぶんだが、この寒さを予知してカメムシの越冬隊がおびただしくなだれ込んできたのだ。
 昨晩は、家業がすべて飛び、淡々と夜を過ごした。気になっていることも多々あったが、さしあたり今動いても仕方がないことばかりで、しばらくゴミのように放っておくしかないと決めた夜でもあった。
 自分より不幸な動画をながめ、俺の方がまだましだと安心してみたり、あるいはその逆であったりと、あいかわらず心は縦横無尽に飛びまわるのみで、リードすらつけることが出来ないでいる。心をコントロールすることができるのなら、人はもっと幸福になれるだろうと思うのだが、それはそれで味気ないかも知れない。
 昨日、朝から妻はどこかに出かけると言い、私は残って家業宅の部屋掃除をしたりしていた。カメムシの死骸処理をしなければならなかったし、自分にこれから起こりうる妄想を楽しんだりした。相手が私に良い仕事を振ってくるという設定をし、私がそれに答えるという芝居を行うことが禁断の楽しみでもあった。いうなれば、ヘッドハンティング的な設定で私はしばし楽しんだのである。それを妄想し、実際に架空の相手に対し言葉を発することで、厭な掃除仕事も苦ではなくなるのである。
 外は終日冷たい雨が降っていた。つまりはそうなのである。心は晴れをイメージしても、外は暗鬱な雨が支配している。それが現実というものであり、ゆるぎないほどそれは堅牢に出来ていて、爪を立てても傷すら入らないのである。それはぬるま湯から寒い外気に触れる様な感覚でもあった。
 十月は後半になった。些細な日雇い仕事もあと一か月少しで終わることとなる。一年たりとも平穏な仕事に就くということがない私たちはまるで越冬カメムシのようですらある。冬の顔をつくり、冬の言葉を発し、冬の落胆やわずかな希望をポケットに少し入れて日々を生きていくということ。次第に失われてゆくもの、剥ぎ取られてゆくものを見送る日々の中を生きていかなければならない。
 生きるということは簡単ではない。でもそんなに難しいことではない、そう思うしかないのだから。


散文(批評随筆小説等) 十月末、心の置き場を探す日々 Copyright 山人 2023-10-22 06:24:36
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