がらんどうの部屋の抜殻
ホロウ・シカエルボク


結局のところ、残されたのはがらんどうの部屋のみだった。北に空いた窓から、曇りがちな今日の午後の光が遠慮がちに忍び込んでいるだけだった。気づかなかったけれど、午前中には少しの間雨が降ったらしい。窓から見える景色には、そんな痕跡は少しも残ってはいなかったけれど。しばらくの間、予定をすべて忘れてしまったみたいにその部屋の中で呆けていた、時折車や自転車が、ここがまだ現実の世界であることを教えるためだけに通り過ぎていた。窓の外では忙し気に巣を修繕する女郎蜘蛛が居るだけだった。何も考えずにそんなものを眺めていると、自分の身体が奇妙な浮遊感に包まれている気がした。突っ立っていただけだったけれど、もしかしたらいつの間にか頭を下にして浮かんでいるのかもしれなかった。いや、そんな筈はない。二、三度足踏みをして、その不思議な呪縛を解いた。動いてしまえばこんなものはすべていつの日か無かったことになるだろう、それはわかっていたけれどまだ動くことが出来なかった。ここでこうして、一見止まっているかのような時間を眺めて居たかった。もちろん、そんなことをしてもなにひとつ元通りになることはないのだが。だけど、そう、わかっているからといって素直に動くだけではいろいろなものを見落としてしまうだろう。そんな欲望がほんの少し働き過ぎているだけなのだ、あえて納得するならばそんな理由が必要だった。でも、納得なんてどうでもよかったのだ。真実は常にここにあって、圧倒的に展開され続けているのだから。結論を持つことは一般的には賢いことだという認識がある。だから誰も彼も、一番飛びつきやすい、わかりやすいものに飛びついて安心したがる。でもそれは、一番簡単な部分だけを飲み込んでわかったような気になっているだけなのだ。そういう風に生きれば楽なのだろうけれどとてもそんな風に生きる気にはなれなかった。そういう、いわば安直さにすがって生きている人間たちがどうにも見苦しく見えたからだった。終いには人の話も聞かず、俺の方が正しいという態度のやり合いになる。それはとても馬鹿げている。真実ごっこをやりたいわけではないのだ。むしろ真実なんてどうだっていい。あってもなくてもいい。要はどうしてそれを求めたのか、どんなふうに求めたのかという動機と経緯があればいい。成長とはすぐにわかる事を排除して、その先に何があるのかを考えてみないことには成り立たない。初見で得た感触だけでわかった気になって片付けて、そんな自己満足をいくら積み上げても高くなりはしない。すぐにぺしゃんこになってどこに行ったかわからなくなってしまうだけだ。そう、結局のところ残されたのはがらんどうの部屋のみだった。だからどうした。そんなことはどうでもいいのだ。部屋の為に生きてきたわけでもない。がらんどうになったので集中しやすくなった。部屋の真ん中に腰を下ろして、静かに呼吸を繰り返した。以前ここに何があったのかを思い出そうとしてみたけれど、ほとんどのことをすでに忘れていた。だからそれについてはもう考えないことにした。人間は必ず忘れたころにがらんどうの部屋に帰って来る。その時にそこに居る意味について、慎重過ぎるくらい慎重に考えるべきなのだ。決して、すぐに答えを出してはならない。それは時間をかけて、熟考されたものでなければならない。早く答えを出して逃げ出そうとすれば、そのうちに一生その部屋から出られなくなるだろう。そして様々な言い訳を並べながら、そんな自分を肯定して生きることになるだろう。安直さにだけは頼ることが無かった。反面教師には恵まれていたから。じっとしていると回転を感じる。先に感じた浮遊感とは少し違う。それは自分の人生の展開のようなものだ。先に行こうとする人間は、立ち止まる時に多くのものを得る。その、アップデートに蝕まれる肉体の蠢きを感じているのだ。窓の外が奇妙なくらい明るい。どうやら朝になってしまった。じっとしていた間の時間はどこに行ってしまったのだろう?盗まれてしまったかのような喪失感を感じる。それは振り幅の問題なのだ、大きく振れば両極へと行き来する。それは生半可な精神ではやり過ごせない。けれど自分自身の生を確かなものにするためには、その振り幅の中で生きなければ何を生み出すことも出来ないだろう。がらんどうの部屋の床を下からノックするものがあった。苦労して床板を剥いでみると、そこには誰よりも知っている人間の抜殻があった。がらんどうの部屋の抜殻。それはまるで風を待っているようだった。風を待って、それに乗って、居ないことになってしまいたがってるみたいだった。朝日は世界を焼き尽くそうとしていた。そして、床板を元通りにするのは剥がす時よりもずっと困難だった。窓を開けると風が吹き込んできた。なにもかものタイミングがずれているのだ。


自由詩 がらんどうの部屋の抜殻 Copyright ホロウ・シカエルボク 2023-09-27 21:38:18
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