季節の海
由比良 倖

彼が生きていた場所を僕は覚えている。
彼は長椅子に寄り掛かって、ギターを弾いていた。
青白い目の光の中で、
名前の知らない星が揺れていた。

浅く、緩い昼寝の中で僕は自殺したいと思った。
いつでも死ねる量の薬をトイレに流すと、
薄青い粘膜が未来に広がって、
それはすぐに消えた。

血か涙か分からないものをぼとぼとと流しながら、
僕の口元は勝手に笑ってた。
衝動的に手首を切りたくなって、……そして雨の音がして、
僕はまた、彼の口元を思い出していた。

彼は薬を多量に飲んで死んだ。
自己の深みに飲み込まれるように。

息を吸うと涙を吐き出しそうになる酸性の脳。

胃が回転して床が天井のよう。
僕は悲しい。
悲しいことも忘れて、僕は悲しい。

「生きていかなくちゃね」
と彼は言った。
「本当に?」
と僕は答える。

安定剤がオレンジ色に染める僕の
胸の中の、季節。

彼は笑った。
夢であるならいいと、
世界が滅亡すればいいと。

僕はカミソリを丁寧にたたんで、
引き出しに仕舞う。

秋の海を亡命するように僕はギターを弾く。

今日の約束を忘れて、
雨の世界の中で、

「もういいよ」と誰か言ってくれるまで……


自由詩 季節の海 Copyright 由比良 倖 2023-09-15 01:54:32
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