偽聖母/逃げ水の男
ただのみきや

ひと晩中つよい風が吹いていた
翌朝いつもの道には帽子をかぶった
まだ青いドングリがいくつも落ちていた
幼子の首のように見えた
自然の範疇 織り込み済み
きりさめ交じりの風が嘯いた
境目などとうに失っていた
過剰なほど降りそそいで
瞳を埋葬するみどりのささめきよ
はだけた夏のがらんどうの乳房よ
この血だまりを相殺してくれ
ああ愛人よ
こんな母ならぬもののへその緒からわたしを解き放て
舌の上で倒立する一本の鑢として
感傷の踏み絵の前で
ひどい酔いどれ ひとりの狂人として
赤裸のまま送り出してくれ
最後の一本のマッチの使い道を誤るために
あの女の皮膚の下を入れ墨のように遡って




天使の翅のようにゆっくりとほどけていった
あの雲は骨より白い

逃げ水の上に倒れている
男のポケットにメモがあった
瞼からは群青のインクが滲んでいる
なにかを持ち出して
自分を落としたのか

燃える蝶
一枚のガラスにとらわれた季節

白紙を占有する
一本の杖を立て
一本の卒塔婆とする
見つめる者の視界にだけ幽鬼はいる
けむりのように歩き風のように嘯いて




窓を開けろ 頭から
アイスキャンディーが下着の中で溶けちまう
オットセイと蜂蜜の鍾乳洞
微笑みは苦い星屑で
足元を危うくするだけだ
財布の中で一円玉を探すよう
出来事と記憶の乖離その広がりにひらひら裏表
言葉ばかりがなにも埋められずに偽札のようだ
バラバラになった筏の上を黒いうさぎが跳ねてゆく
挨拶を送る男たちの瞳の針が文字盤と垂直に
虚を刻むと貞操帯をつけたお針子は御旗を繕いながら
カナブンを吐き戻したその時きみらのメガネは手垢だらけだった
きみが占有しているのは自我だけだ
先っちょだけ 頭部だけのクワガタムシ
子犬のパペットと矮人の持ちつ持たれつ
釦の目鼻で論じ合うのは誰だ
きみの脚を全部もいでピカピカに磨いて
自分の顔を映して悦に浸っているのは
サインを確認しろ誰かルーペを持って来い
なまぬるい手でそんなにこね回したら
怒りも悲しみも饐えて食えたもんじゃない
古い訳詩の中で花でも摘んでいるほうがましだ
女の鼻をそっとつまんでいるほうが
こうしてまた白紙を行き巡る
一本の杖を立ててここを占有しよう
一本の卒塔婆に寄り添っている
幽鬼なんているようないないような
それが好くてぼくは逃げ水を覗いている
羽化したばかりのカゲロウに囲まれながら
キスするほど 溺れるほど顔を近づけて


                     (2023年8月20日)











自由詩 偽聖母/逃げ水の男 Copyright ただのみきや 2023-08-20 15:20:54
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