羊の話1
由比良 倖
草原の中に羊さんが住んでいました。お日様はぽかぽかして、お空はどこまでも透きとおり、風は羊さんの羊毛をなびかせて、彼はからだじゅうで微笑していました。歌を歌いながら、「今日も世界は美しいなあ」と羊さんは思いました。
お腹が空いたので、草を食べていると、権力羊がやって来て、その様子を見て一瞬牧歌的な笑みを浮かべ、そのあとすぐにまた険しい顔に戻り……何しろ権力羊は寝不足なのです……「いい天気だね」と羊さんに声をかけました。羊さんは「ああ、そうですね」と答えたきり、また草を食べ始めたので、権力羊は少しむっとして、しかし努めて明るく「君は、仕事は何をしているんだい」と問いました。羊さんは、草を食べるのをやめて、質問の意味が分からないみたいに権力羊を見返しました。権力羊は何故かびくりとして、「君は、仕事は何をしているんだい。今日は休みかい?」と早口で言いました。羊さんは、少し戸惑ったように、「ええと、草を食べているんです」と言いました。「そうすると、この草は君のものかい?」と権力羊さんは問いました。
羊さんはしばらく黙って口の中の草を噛んでいましたが、噛む音が大きすぎるように感じて、急いで飲み下しました。
「その……、この草は誰かのものなんですか?」
「すると君のものじゃないんだね?」
「ええ、でも、誰かがこんなに美味しい草を育ててくれたのなら、お礼を言わなくちゃ。僕はよくここの草を食べるんです」
権力羊はしばらく役人的な慇懃さを崩さずにいようと難しい顔をしていましたが、すぐに悲しげに首を振って、
「君、それは法律違反だよ。この草地は羊会社のものなんだ。いずれ、ここの草を刈り取って、街に出荷するだろう。それに、君も本当なら、とっくに働いていなくてはならないんだ」
羊さんは、なるほどなるほど、と言う風に頷いていましたが、実は「とすれば、これが権力というやつなんだな」と本で読んだことをふと思い出して、
「じゃあ、僕は罰金を払うのでしょうか?」
と思いがけず羊さんがいっぱしの市民めいたことを言ったので、権力羊はびっくりして、
「君は知っていたのか?」
と怒ったように言いました。しかし羊さんは「罰金」という言葉や法律の言葉は知っていましたが、それが何を意味するのかまでは知らなかったのです。
「とにかく君は働かなくてはならない。草地から出なさい。今から羊仕事に就いてもらう」
と言って、羊さんを部下に命じて、街まで連れてこさせることにしました。「手錠を持ってくればよかった」と権力羊は街に向かう自動車の中で考えました。手錠を持ってくれば、羊さんに手錠を見せながら「手錠は勘弁してやる」と言うことも出来た。と考えて、すぐに、それも卑劣な考えだなあ、やっぱり持ってこなくてよかった、と思いました。車の中では眠ろうと思っていたのに、眠れずに、権力羊は自分の羊部屋の間取りの隅々まで思い出したりしている内に、「何て陰気な部屋だろう。あんな部屋では眠れる訳がない」と思いました。
羊さんはその日一日夕方まで羊仕事に従事して、夕食の頃にはぐったり疲れ切っていました。
「空は煤煙に塗れて、絶望の色だ」
羊食堂で皿に盛られた草を食べながら、ふとそんなことを漏らしました。
「ところがそうじゃない」
思いがけず、隣に座っていた職業羊が答えました。羊さんは急に放心が解けたように、あたふたとして、
「えっと、僕は……」
「煤煙なんて昔の話さ。今では街の方が病気が少なくてみんな長生きするって言う」
羊さんは恥ずかしくなりましたが、しかしさっき漏らした言葉を冗談だとごまかすのも変な気がしたので、律儀に窓の方を見て、そして夕焼けに照らされた街や道路を見ました。見ていると夕焼けも街も道路も、何だか綺麗なような気がしてきて、
「そう言えばそうかも知れません。僕は何だか疲れてしまって、風景までも疲れさせてしまったんです、きっと」
職業羊は、くっくと笑って、「君はひょっとしたら詩人かい? 詩人はつとまらんぜ」と言って、羊さんとは反対側の手で持ったお酒のグラスを飲み干しました。
「どうだい? 働いたあとの草は美味しいだろう? なんて、君はいかにもまずそうに食べるものだ。それとも酒かい? そうか。それがいい」
そう言うと、羊さんが断る隙も与えずに二人分のお酒を注文してしまいました。
すぐにお酒が運ばれてきて、羊さんがもじもじしていると、
「これは俺の奢りさ。さあ飲めよ」
と職業羊さんは言いました。言われてみると、迷うことは何一つない気がしてきて、羊さんは、
「ありがとう……」
と言ったあと、何かを誤魔化すみたいにお酒を一気に半分くらい飲み下しました。職業羊さんは、はっは、と笑い、羊さんは何だか楽しいような気がしてきて、何だか身体まで楽になってきて、お酒もとても美味しく思えてきました。
「ああ、今日あなたのようなひとに会えて僕は幸運ですよ。本当に、まさに恩人ですよ、あなたは。これなら街でも生きていけそうです。あなたにはお礼がしたい。いや、是非そうしたいですよ」
帰り際、大分酔いが回ってきた羊さんは、職業羊さんに紅潮した顔を向けて、まくし立てました。
職業羊も大分赤くなった顔で、
「うんうん、そう言ってくれるだけで嬉しいよ。俺は礼なんか要らないから、その代わり君がまた誰か、今日の君みたいに落ち込んでる羊を見たら、そのときは酒でも奢ってやれよ」
と言いました。羊駅で、別々の電車に乗るためにふたりは分かれました。
帰りの電車の中で、職業羊さんは「俺は、いいことを言ったかなあ。あいつは危なっかしい羊だなあ」と思いましたが、すぐに眠ってしまいました。
羊さんも電車に乗っていました。電車は満員に近かったので、羊さんは立っていました。早くも酔いが覚めてきて、車内のにおいと、羊たちのにおいで頭がくらくらしました。「何て暗い顔をしたひと達だろう。そして僕も同じ暗い顔をして、同じように揺れている。僕は何であんなことを言ったんだろう」と思って、落ち着かなげに窓を見ましたが、そこには他の羊たちに混じって、ひとり自分を見返す羊さんが映っているだけでした。
羊さんはそれから毎日羊仕事をしましたが、慣れるどころかどんどん嫌になってきました。羊さんは昼休みには安い羊会社の缶詰草を急いで食べ……そうでもしないと何も食べる気がしないまま昼休みが終わってしまうのです……最初の数日は、余った時間を中庭の羊造園でぶらぶらして過ごしましたが、その内にはそれもやめて、それからは裏庭の羊倉庫のわきに、誰も来ない日陰を見付けて、そこで物思いに耽ってばかりいました。空を見上げるのがとても億劫になってしまいました。雲の形が羊会社のロゴマークに見えて背中がぴりぴりしてからは、以前のように空を見上げても「美しい」とも何とも思えなくなって、悲しいとも何とも言えない気持ちになって、空なんか見たくない、と思うのでした。