職歴
本田憲嵩

さいしょに見たとき、その老人はまるで公園の置物のようにとても粗末なベンチにたたずんでいた。杖を地面につきながら。何をするわけでもないただ茫然と青い空を見つめている。ぼくは散歩のがてら一服でもしようかとそのちいさな公園にちょうど立ち寄ったのだった、その老人のとなりのベンチに腰かけて薄いベージュのコートの胸ポケットから煙草とライターを秘密の手帳のようにとりだしておもむろに火をつけた。その老人があまりに物欲しそうにぼくの吸っているセブンスターを見てくるものだから、良ければ一本どうですか?とぼくはなんのためらいもなくその老人にその一本をこころよく差しあげた。おいしそうに燻らせる煙。ありがとう、とお礼の言葉。ぼくはとても良いことをした気分になった。「今日はとてもいい天気ですね」「ええ、そうですね、もうすっかり春のあたたかさですね」「ええ、そうですね」というありがちなたわいもない会話。「ところでいったいなんの仕事をされているんで?」「いやいまはなにも」「求職中です」「そうですか」「そんなあなたはいったいどんなお仕事に就かれて?」――するとその樹木のようにシワのおおい老人の顔はどろどろと粘土のように溶けはじめてきて、まるで捏ねたパン生地のかたまりのようなゆがんだのっぺらぼうとなり、そのゴムのようなゆがみが一瞬で元どおりになるやいなや、黒いヘルメットをかぶった精悍な顔だちの青年をあっという間にかたちづくったのだった。かれは緑色の迷彩服を着ていてベンチから俊敏に立ちあがったかとおもうと、ぼくにむかってとてもたのもしい敬礼のポーズをとったのち、公園の中心のあたりまで規則ただしい時計の秒針のような歩調で行進しはじめた、いつのまにか物干し竿くらいに伸びているその杖をまるでカカシのように肩に担ぎ込んで、コマのようにくるくると旋回しはじめたのだ。それにともなって強烈に舞いあがるつむじ風と砂ぼこり。ぼくの呼びかける声なんてまるで聞こえちゃいない。かれはそのままみずからの身体をヘリコプターのプロペラそのものとして、そのまま春の青い上空へといきおいよく飛びたっていってしまった、とてもごきげんな笑顔を浮かべながら。ついには春空の直線となり点となりやがて完全に消えていってしまった。あとに残されたものは、砂ぼこりで咳き込む喉と砂まみれになった薄い春物のベージュのコートとみだれにみだれた頭髪の髪型。ぼくはひとさまの過去にはあまりむやみにやたらと触れるものではないものだとおもった。



自由詩 職歴 Copyright 本田憲嵩 2023-04-19 03:43:08
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