シナリオ・駒は乙女に頬染めさせて①
平瀬たかのり

「駒は乙女に頬染めさせて」登場人物表
   
橘川寿々芽(25~29)JRA所属騎手
早坂姫香(20~24)右同

(以下の人物の年齢については登場時のもの)
海老原剛市(56)木本厩舎・厩務員
三門久和(50)調教師
木本泰道(49)調教師
  晃子(45)泰道の妻
桃谷旭延(53)調教師
前園浩紀(25)JRA所属騎手
舘誠(35)右同
海野穣一(47)右同
  颯希(15)穣一の娘
アルヌール(30)JRA所属騎手
林原(55)マリアラパスの馬主
朝倉寛一(61)レナーテの馬主
  美途(14)寛一の姪
大里正純(47)育成牧場場長
  仁美(35)正純の妻
  伽耶(4)正純夫妻の双子の娘・姉
  沙耶(4)右同・妹
千堂駿太(23)装蹄師
浜田(38)スポーツ紙記者

マリアラパス号 JRA所属の競走馬・牝馬
レナーテ号   右同
その他


〇京都競馬場・全景
   空から俯瞰で。

〇同・スタンド
   十万人を超える観客で超満員のスタンド。

〇同・芝コース・ゴール地点
   ゴール地点に設置された《エリザベス女王杯》
   のピンク色のゴール板装飾。

〇同・地下馬道
   出走各馬が通っていく。その最後、18のゼッ
   ケンをつけたレナーテ号と鞍上の橘川寿々芽
  (きっかわすずめ)(29)、人馬がゆっくりと
   通る。

〇同・本馬場入口
   地下馬道を抜ける寿々芽とレナーテ。
   光が溢れる。大歓声が響く。レナーテを止める
   寿々芽。
   合図を送る寿々芽。走り出すレナーテ。
   人馬の姿、光の中に吸い込まれるように消えて――。

〇メインタイトル
   〈駒は乙女に頬染めさせて〉

〇栗東トレーニングセンター(以下栗東トレセンと表記)
   調教コース(早朝)
   テロップ〈以下、T〉【四年前】
   ウッドチップコースを疾走する調教馬。その鞍上
   の寿々芽。

〇同・調教コース・調教スタンド前
   調教馬から降り、調教助手に馬を引き渡す寿々芽。
   隣の調教師が訊く。
調教師「どうやった?」
寿々芽「ソラを使うことはなくなりました。ただ油断す
 ると行きたがりますね、まだ」
調教師「そうか。おおきに。最近評判やで。ええ攻め馬
 してくれる言うて」
寿々芽「はぁ、ありがとうございます」
   調教助手に曳かれ帰っていく馬を見送る寿々芽。

〇同・敷地内の路上
   自転車に乗っている寿々芽。

〇同・独身者寮の前
   自転車を止め、中に入る寿々芽。

〇同・寮内の食堂
   朝食を摂っている寿々芽。同期騎手の前園浩紀
   (25)がはす向かいに座る。
浩紀「おはよ」
寿々芽「――おはよ」
浩紀「なあ、昼から映画観に行かへんか?」
寿々芽「はぁ?」
浩紀「一応誘ってやってるねんけど」
寿々芽「なによそれ」
浩紀「いやぁ、寿々芽最近ずっと暗い顔してるから気
 分転換させたろと思うて。あ、勘違いすんなや。悪
 いけど寿々芽俺のタイプと全然違うし。前から言う
 てるけど」
寿々芽「あんた殴られたいわけ」
浩紀「おー怖。おまえな、そんな口しかきかへんから
 いつまでも男できひん――」
   ギロッと浩紀を睨む寿々芽。怯む浩紀。
寿々芽「いろいろお気遣いありがとう。でも昼からも
 やることたくさんあるのでけっこうです!」
   鼻白む浩紀。黙って食事を続ける二人。
浩紀「今週乗り鞍はよ?」
寿々芽「ないけど」
浩紀「ちょっとは頑張れよ。見境なしに競りかけていっ
 た『ケンカスズメ』はどこいったのよ」
寿々芽「そう呼ばれるの、好きじゃないし」
浩紀「このままやと競馬学校首席卒業だけが勲章やぞ」
寿々芽「……GⅠ勝ったからって偉そうに言ってんじゃ
 ないわよ」
   仏頂面で食事を続ける寿々芽。

〇同・三門厩舎・馬房内
   馬房内清掃や飼葉の準備などの仕事をしている寿
   々芽。調教師の三門久和(50)がやってくる。
久和「寿々芽」
寿々芽「はい」
久和「最近、よそ回ったりはしてへんのか」
寿々芽「はぁ、あまり相手にしてもらえないっていうか……」
久和「ポンコツ厩舎に所属したのが運のツキやったなあ、
 おまえも」
寿々芽「わたし、そんなことは……」
久和「どこでどんな巡り合わせがあるか分からん。営業
 も大事な仕事やぞ」
寿々芽「はい」
   去っていく久和。清掃を続ける寿々芽。

〇同・木本厩舎・事務所内
   テーブル前のソファに座っている寿々芽。調教師
   の木本泰道(49)が前に座る。頭を下げる寿々芽。
泰道「アニキに言われたか、営業のひとつもやってこいっ
 て」
寿々芽「あ、はい、まあ……」
泰道「俺のところきて嫁さんのケーキ食って帰るのは営業
 とは言わんぞ」
寿々芽「……すみません」
   泰道の妻、晃子(45)が来る。
晃子「もう、いじめんといてあげてよ。だいたい兄やんが
 ええ馬を寿々芽ちゃんに回してあげんのがあかんのや。
 はい、どうぞ寿々芽ちゃん」
   寿々芽の前にコーヒーカップとイチゴケーキの乗っ
   た皿を置く晃子。
寿々芽「すみません、いただきます」
   ケーキを口にする寿々芽。
寿々芽「うわ、やっばい。なに、これ」
晃子「でしょお。馬主さんからイチゴたくさんいただいて
 ね、それつぶして練りこんでみたんよ。特製〈あまおう
 スペシャル〉や」
寿々芽「こんなの食べたことない」
   二口、三口とケーキを口に運ぶ寿々芽を見て泰道が
   苦笑して。
泰道「尻に火がついてもええぞ、寿々芽」
寿々芽「え?」
泰道「早坂姫香や。知ってるやろ」
寿々芽「はい」
泰道「今年から女性騎手が二人になるんや。東西に分かれ
 てる言うても、比較されることに変わりはないんやから
 な」
寿々芽「はい」
晃子「ああ、そうやったわね。アイドル歌手みたいな顔の
 女の子。競馬学校の卒業式にマスコミたくさん来てたん
 やってねえ」
泰道「先輩の意地、見せんとな」
寿々芽「はい」
泰道「おまえに乗ってほしい馬がいてたら、馬主さんに
 話し通してから連絡するから」
寿々芽「はい、ありがとうございます」
泰道「ええか寿々芽。騎乗の機会が来たら、今まで以上精
 魂込めて乗ってみろ。掲示板に載らんかったら引退や、
 それくらいの覚悟で乗るんや」
寿々芽「――はい」
晃子「あかんわ、そんなん。寿々芽ちゃん引退したら、こ
 こに来てわたしのケーキ食べてもらわれへんようになる
 やん。なあ」
泰道「なにを言うとるんや、おまえは」
   寿々芽、笑う。

〇阪神競馬場・パドック【二週間後】
   パドック最終周回。寿々芽騎乗馬の手綱を曳いてい
   る厩務員の海老原剛市(56)。無言の二人に声が
   重なる。
剛市(声)「顔色悪いぞ、緊張してるのか」
寿々芽(声)「まあ、それなりに。お尻に火がついちゃっ
 てるもんで」
剛市(声)「おまえ、寿司はなにが好きや」
寿々芽(声)「はい?」
剛市(声)「寿司はなにが好きか訊いとる」
寿々芽(声)「お寿司ですか。シマアジとか好きですね。
 あとカンパチも大好きです。めったに食べられません
 けど」
剛市(声)「生意気な舌しとるな――奢ったる。カンパ
 チの握り食いたかったら勝て」
寿々芽「それって回るところですか」
剛市(声)「あたりまえじゃ。回らん寿司屋はGⅠ勝っ
 たらじゃ」
寿々芽(声)「ケチンボ」
   無言で周回を続ける二人。

〇同・芝コース
   第三レース発走前。スタート地点へ向かう各馬。
誠「寿々芽」
   第一人者の舘誠(35)が寿々芽の横に来て声を
   かける。
寿々芽「あ、誠さん」
誠「一緒のレースに乗るの、久しぶりやな」
寿々芽「そうですね」
誠「木本先生にええ馬乗せてもろうたやん」
寿々芽「はい」
誠「そろそろ今季初勝利といきたいなあ」
寿々芽「はい」
   浩紀がやって来る。寿々芽の横を過ぎながら。
浩紀「あ、誠さんダメっすよ。こいつと話してるとツキ
 全部逃げてって勝てるもんも勝てなくなりますから」
寿々芽「あんたねぇっ!」
   笑う誠。
    ×     ×    ×
   発走。一斉に飛び出す各馬。寿々芽、いい位置
   でレースを進める。最後の直線に入る各馬。
   先頭集団六頭の中にいる寿々芽の馬。
   その前に浩紀の馬がいて、寿々芽の馬の進路を
   塞ぐ形になっている。
寿々芽「浩紀、前開けてっ!」
   振り返り寿々芽をチラッと見てニヤッと笑う浩紀。
   譲らない。
寿々芽「なっ……ちょっと前開けなさいよ! もう足な
 いでしょあんたの馬!」
  浩紀、無視。前を塞いだまま。
寿々芽「このぉ! 前開けろつってんだ、ソープ狂い! 
 三人プレイにはまってんのマスコミにばらしてやろう
 か、変態野郎!」
   ビクッとなる浩紀。進路を開ける。そこへ飛び込
   む寿々芽の馬。寿々芽、鞭を一振り。加速。馬群
   から抜け出す寿々芽の馬。そのまま直線一気。
寿々芽「カンパチっ!」
   ゴールイン。寿々芽の勝利。

〇同・検量室
   鞍を外し秤に乗って検量を終える寿々芽。握
   手をしにくる騎手が何人かいる。
   その中の一人、ベテラン騎手の海野穣一(47)。
穣一「今季初勝利やな」
寿々芽「海野さん。ありがとうございます」
   寿々芽、穣一の手を強く握る。
穣一「けど、レース中の大声は褒められたもんやな
 い。事故にも繋がりかねんぞ」
寿々芽「――すみません」
穣一「ほら、変態くんがおいでなすったで」
   浩紀が騎手たちにいじられながらやってくる。
浩紀「寿々芽ぇ、あれはないやろ」
寿々芽「事実じゃないの」
浩紀「事実って、おまえなあ、レース中やぞ」
寿々芽「レース中に言われて困るんだったら、寮の
 中でも自慢げに言わなかったらどう? わたしだっ
 て一応女なの。少しは気を遣ってよ」
浩紀「……悪かったよ」
   検量室を出かける寿々芽。
浩紀「待ちぃや」
寿々芽「え?」
   右手をかざす浩紀。
浩紀「コングラチュレーション」
   寿々芽、浩紀をじっと見ているが。
寿々芽「サンキュ」
   パァン! ハイタッチ。笑み合う二人。

〇回転寿司店【数日後】
   カウンターに並んで座っている寿々芽と剛市。
   カンパチの握り寿司を旨そうに頬張る寿々芽
   を笑って見ている剛市。

〇栗東トレセン・調教コース・調教スタンド前
   【一か月後】(早朝)
   調教を終え、下馬した寿々芽のところ 
   へスポーツ新聞記者の浜田(38)がやって
   くる。
浜田「グッモーニン。寿々芽ちゃん」
寿々芽「浜田さん」
浜田「調教、これで終わり?」
寿々芽「はい」
浜田「ちょっと話し訊かせてくれへん?」
   調教スタンドをコナす浜田。

〇同・調教スタンド内の食堂
   コーヒーカップを前にして向かい合わせ
   に座っている寿々芽と浜田。
寿々芽「ここまで二勝の騎手に取材することが
 なにか?」
浜田「掲示板にはよう乗るようになったやん。
 調子上がってきてるのとちがう?」
寿々芽「おかげさまで――早坂騎手のこと?」
浜田「分かった?」
寿々芽「そりゃまあ」
浜田「関西初お目見えや。明日の追い切りから
 乗るんやろ。何時に来るん?」
寿々芽「夜の八時って聞いてます」
浜田「えらい遅いんやな」
寿々芽「京都で雑誌の撮影があって、それ終わっ
 てからになるって。清水通りとか鴨川べり歩
 くの撮るって聞きましたけど」
浜田「モデルさんやな。居てる間寿々芽ちゃん
 の部屋に泊るんやろ」
寿々芽「ええ。さすが『ヒットマン予想』浜田。
 よくご存じで」
浜田「悩んでるらしいで、姫香ちゃん。憧れの
 橘川騎手は質問攻めに合うかもしれんなあ」
寿々芽「はぁ? なんですそれ」
浜田「なんや、知らんのかいな」
   浜田、スマートフォンを取り出し操作。
浜田「デビュー前のうちのインタビュー記事や。
 『橘川騎手が目標です。いつかいろいろお話
 を聞いてみたいと思います』――な」
寿々芽「社交辞令ってやつですよ、そんなの」
浜田「そうとも言えんのとちがうか。まだ一つ
 も勝ててないやろ彼女。連に二回絡んだだけ
 や。けど出たらオッズは上がる。典型的な人
 気先行、客寄せパンダいうやつや。女性騎手
 の先輩のきみには、訊きたいこと山ほどある
 のとちがうかなあ」
寿々芽「――」
浜田「なんか面白いこと訊かれたら、教えてぇ
 や。頼んだで」
   寿々芽の肩をポンと叩き、食堂を出てい
   く浜田。
寿々芽「パンダとか言うなよな」
   コーヒーを啜る寿々芽。

〇同・独身者寮・一階フロア(夜)
   入寮している若手騎手たちが、自室に戻
   らずそわそわした様子でうろついている。
   テレビ前のソファに座った寿々芽、呆れ
   顔。
寿々芽「どいつもこいつも……」
   浩紀が来て寿々芽の横に座る。
浩紀「遅いな、姫香ちゃん」
寿々芽「知らないわよ」
浩紀「かわいいよなあ姫香ちゃん。俺あの子ど
 ストライクやねん。なあ、今晩一緒に寝るん
 やろ。ええなあ。代わってくれへん?」
寿々芽「あんたマジで一回死んだら?」
   フロアの騎手たちが騒めきだす。寮の入
   口に旅行鞄を持った早坂姫香(20)
   が立っている。立ち上がる寿々芽。姫香
   の前まで行く。礼をする姫香。
姫香「初めまして。早坂姫香です。今日はお世
 話になります」
寿々芽「初めまして。寮長の橘川寿々芽です。
 今日はわたしの部屋に泊ってもらうことにな
 ります。で、金、土は阪神の調整ルーム。聞
 いてるよね」
姫香「はい。橘川騎手が寮長さんなんですね」
寿々芽「そうなの。男連中頼りなくってね、去
 年から。ここでいいから挨拶しようか。一応
 礼儀ってことで」
姫香「はい――美浦の町田昭仁厩舎所属、早坂
 姫香です。今日はこちらでお世話になります。
 よろしくお願いします!」
   深々と頭を下げる姫香。「お願いします」
   と返答する騎手たち。
寿々芽「ご飯は?」
姫香「ここに来る前に軽く食べてきました」
寿々芽「そう。疲れたでしょ。部屋に行こうか。
 それともここでみんなと歓談する?」
姫香「いえ、お部屋にお願いします」
寿々芽「うん」
   姫香、寿々芽の後をついて行く。浩紀
   の前を横切る二人。
浩紀「あ、あの、早坂さん」
   ギロッと浩紀を見る寿々芽。
寿々芽「ほら、こちら去年の朝日杯勝った天下
 のGⅠジョッキー。拝んどこうか。ご利益あ
 るかもよ」
   浩紀に向かって柏手を打ち頭を下げる寿
   々芽。姫香を見てニッと笑う。
   姫香、寿々芽の真似をして浩紀に向かっ
   て柏手を打ち、頭を下げる。
寿々芽「はははっ」
   そのまま去っていく二人を呆然と見送る
   しかない浩紀。

〇同・寿々芽の部屋(夜)
   洋間の殺風景な部屋。姫香がジャージ姿
   で戻ってくる。
姫香「お風呂、ごちそうさまでした」
寿々芽「うん。どうぞ、座って」
姫香「あ、はい」
   座卓を挟んで向かい合って座る二人。
寿々芽「狭くて落ち着かなかったでしょ。美
 浦の独身寮のお風呂はもっと大きいって
聞いたことあるけど」
姫香「あ、はい。女性が他に厩務員さん二人
 と調教助手さん一人がおられるので。たま
 にみんなでいっしょに入ったり」
寿々芽「いいなあ。なにかと助かるでしょ」
姫香「はい。いろいろ話聞いてもらったり、
 すごくよくしてもらってます」
寿々芽「羨ましい。ここ入ってからずーっと
 ひとりだよ、わたし」
姫香「でも橘川さん、寮長だなんて凄いです」
寿々芽「騎手会長の命令じゃ断れないよ」
姫香「騎手会長って海野さんの?」
寿々芽「うん。『調教に遅刻したり、休んだり
 するようなやつらばっかりだからお前やれ』って」
姫香「そうなんだ」
   姫香、部屋を見渡し、寿々芽を見る。
寿々芽「ん?」
姫香「夢見てるみたいです、わたし、今」
寿々芽「え?」
姫香「橘川騎手と同じ部屋にいるなんて」
寿々芽「いや、あの、あなた――憧れの騎手がわ
 たしっていうの、あれってほんとに?」
姫香「はい。嘘なんか言いません、わたし」
寿々芽「いや、そりゃ嬉しいけどさ。でもわたし
 今年で七年目だけど、ようやく通算四十勝だよ。
 目標はもっと高いところにおかなきゃ。女性騎
 手だったら、アメリカのリンダ・ウィリアムス
 とかいるじゃん」
姫香「――わたし、いじめられっ子でした」
寿々芽「え?」
姫香「幼稚園のときから中学卒業までずっと。特
 に女の子からいじめられてました。友達なんか
 一人もいなかった。中学のときなんか酷かった
 ですよ。上履きないのなんか毎日。売春してる
 とか、年寄りの先生とキスしてるの見たとか、
 変質者の子供妊娠したとか、そんな噂ずっと流
 されてました」
寿々芽「……やっかみ、だよね」
姫香「トイレに呼び出されてカッターナイフ顔に
 押し当てられたこともあって。わたし、怖くて
 そのとき漏らしてしまって。そのままパンツ脱
 がされて、頭からかぶせられたこともありまし
 た」
寿々芽「ひどい……」
●インサート・姫香の回想場面
   学校の女子トイレの中、五人の女子生徒に
   囲まれ、顔にカッターナイフをつきつけら
   れている姫香。怯え、失禁する。(回想場
   面、終わる)
姫香「死ぬことばっかり考えてた。わたしいじめ
 た子の名前全員ノートに書いて、自殺するんだっ
 て」
寿々芽「……」
姫香「中三の夏に、親に頼んで北海道に連れて行っ
 てもらったんです。死ぬ前に一回ラベンダー畑
 見ておきたくって。夏休み終わったら自殺するっ
 て決めてたから」
寿々芽「ラベンダー畑見て気が変わったのね」
   首を横に振る姫香。
姫香「きれいでした、ラベンダー畑。あぁ、これで
 もう思い残すことないって。夏休み終わったら死
 のうって――で、次の日です。お父さんが札幌競
 馬場に行こうって言ったんですよ。なんであんな
 こと言ったんだろ。ギャンブルなんて無縁の人な
 のに。そこでわたし見ちゃったんですよ」
寿々芽「え、なにを?」
姫香「2レース、マキタジョナサン。4レース、ミ
 ナミノサマンサ。8レース、タテノシルヴィア。
 最終12レース、ドラゴンネイル」
寿々芽「あなた……」
姫香「はい。わたし見たんです。橘川寿々芽騎手の
 一日四勝を、この目で」
寿々芽「そう」
姫香「2レース勝たれた後お父さんに『女の人だよ』っ
 て教えてもらってビックリして。で、4レース、8
 レース。もうビックリの連続。その時にはもう橘川
 騎手の大ファン。で、最終のドラゴンネイルの大逃
 げですよ。ずーっと絶叫しながら観てました」
●インサート〈札幌競馬場〉
   大逃げを打つ寿々芽と騎乗馬ドラゴンネイル。
   それを見て叫び声を上げている十五歳の姫香。
   後続を大きく引き離したままゴールインするド
   ラゴンネイル。両拳を突き上げる姫香。
姫香「興奮しすぎて鼻血吹き出しちゃったんですから、
 ゴールのすぐ後に。涙も止まんなくて。鼻血と涙で
 顔ぐちゃぐちゃ。でもそんなのどうでもよかった。
 こんな女の人がいるんだ、こんなかっこいい人にな
 りたいって。死ぬもんか、あんなやつらに負けたま
 ま死んでたまるかって。わたしも絶対この人みたい
 に強くなって、あいつらに勝ってやるんだって」
寿々芽「それで騎手を?」
姫香「はい。それから親に乗馬クラブ通わせてもらっ
 て。でも一発合格は無理でした。中三の夏に決め
 たんですもんね。一浪してるんですよ、わたし」
   正座をする姫香。
姫香「だから、わたしが騎手になっているのは――
 うぅん、わたしが今、生きているのは、橘川騎手
 のおかげなんです。だから、本当に、ありがとう
 ございます」
   頭を下げる姫香。
姫香「ああ、やっと言えた」
寿々芽「足、くずしてよ。そうか――でも、あの一
 日四勝が騎手人生のピークだよ」
姫香「そんなことないです。今季初勝利の騎乗なん
 か凄かったじゃないですか」
寿々芽「ああ、あれか。ふふ。こっちでの騎乗は林
 原オーナーの意向?」
姫香「はい。騎乗予定馬三頭全部、オーナーの持ち
 馬です」
寿々芽「林原さんのプロメテウスプロモーション、
 入ったんだよね」
姫香「はい。テレビや雑誌の仕事が来たときに芸
 能事務所入っておいた方が都合がいいからって
 町田先生が。でも――今日の撮影とかも、正直
 嫌っていうか」
寿々芽「町田先生の判断は正しいと思うよ。テレ
 ビ局の人間絶対ほっておかないもん」
姫香「だけど一勝もあげてない騎手が関西遠征だ
 なんておかしいですよ。そんなの……」
寿々芽「まあ確かに異例だけどさ。あんまり気に
 しない方がいいよ。乗せてもらえるうちが花な
 んだからさ――なんか飲む?」
姫香「『一日は缶ビールで締める』ですよね」
寿々芽「え?」
姫香「前にインタビュー記事で読みました」
寿々芽「まいったなあ」
姫香「わたしも寿々芽さんの真似してときどき――
 あ、寿々芽さんって言っちゃった」
寿々芽「いいよそれで。そっか、二十歳なって
 んのか」
   冷蔵庫から缶ビールを二本取り出す寿々芽。
   一本を姫香に渡す。
寿々芽「明日に響かない?」
姫香「けっこう強いんですよ、わたし」
寿々芽「意外。よし、じゃあ乾杯だ。このままで
 いいよね」
   栓を開ける二人。
寿々芽「乾杯」
姫香「乾杯」
   缶ビールを合わせ、旨そうに飲む二人。
寿々芽「あー、旨い。こっちで初勝利といきたいね――
 姫香」
   姫香の顔がぱっと輝く。
姫香「はい! 寿々芽さん!」
   笑顔の寿々芽。

〇阪神競馬場・パドック【二日後】
   第9レースのパドック。出走各馬が厩務員
   に曳かれ周回している。待機所から出てく
   る騎手たち。姫香の姿に観客からどよめき
   が上がる。少し遅れて寿々芽。姫香の隣に
   立って。
寿々芽「さあ、本日最初で最後のチャンスだ」
姫香「はい」
寿々芽「逃げるの?」
姫香「はい。そう言われてます」
寿々芽「わたし、逃げ馬に乗る時は特に腹くくっ
 てる。当たって砕けろだ、って」
姫香「当たって砕けろ――」
寿々芽「うん」
   厩務員に「止まれ」の声がかかる。騎手が
   騎乗馬のところへ小走りで向かう。

〇同・芝コース(第9レース)
   ゲートインしている各馬。ゲートが開き各
   馬一斉に飛び出す。姫香の騎乗馬が大きく
   後続を離してレースは進む。
   3コーナー手前で集団を抜け出す浩紀の騎
   乗馬。4コーナー、一気に後続馬が差を詰
   める。
   直線。逃げ続けている姫香の馬。浩紀の馬
   と並走になりかける。必死の形相で鞭を振
   るう姫香。
   姫香の馬が一馬身抜ける。そのままゴール。
   歓声が沸き起こる。
   その様を最後方で見届ける寿々芽。
寿々芽「やったじゃん」
   最下位でゴールする寿々芽の馬。

〇同・ウィナーズサークル
   インタビューを受けている寿々芽。
姫香「関東に戻っても頑張ります! また戻って
 来ますので、今後も応援よろしくお願いします!」
   大歓声と拍手が沸き起こる。
   インタビューを終えた姫香のところへ寿々
   芽が来る。向き合う二人。
姫香「当たって砕けろでいきました」
寿々芽「浩紀のキッツイ追い込みにも負けなかっ
 た。たいしたもんだよ」
   手を差し出す寿々芽。
寿々芽「初勝利おめでとう。わたしも頑張る。い
 つかGⅠでいっしょに、ね」
姫香「――はい、きっと。約束ですよ」
寿々芽「うん」
   握手をする二人。カメラのフラッシュ
   が次々に焚かれる。
                (F・O)

〇京都競馬場併設の調整ルーム・外景(夜)
   〈T〉【二年後】

〇同・食堂(夜)  
   歓談スペースのソファに向かい合って座り、
   将棋を指している寿々芽と浩紀。
浩紀「負けかけてるのは分かる?」
寿々芽「うるさい」
浩紀「俺もたいがいヘボ将棋やけど、寿々芽
 よりは上やな――東山の割烹の彼氏とはうまい
 こといってるん?」
寿々芽「――二か月前に別れた」
浩紀「ありゃま。なんで」
寿々芽「他に好きな女ができたんだって」
浩紀「捨てられてるやん、おまえ」
寿々芽「だまれ――ねぇ、赤ちゃんかわいい?」
浩紀「かわいくないって言う思う?」
寿々芽「うん。だよね」
浩紀「乗り役、まだ続けるんか?」
寿々芽「え」
浩紀「聞いたで。三門先生から調教助手にならへ
 んかって言われてるんやろ。悪い話しやないと
 思うけど」
   浩紀、テーブルの上にあった競馬雑誌を手
   に取り、ページを繰り、寿々芽の前に投げ
   出す。
浩紀「『ずっと尊敬してるのは橘川騎手です』――
 そう言うてもらう値打ちが今のおまえにあ
 るんかいな」
   開かれている姫香の顔アップ写真のページ。
   『ターフのプリンセス・ロングインタビュー』
   の文字が躍っている。それをじっと見る寿々芽。
浩紀「三年目のここまでで八十五勝。地方も合わせて
 重賞五勝。たいしたもんや。林原さんがええ馬当て
 がってるいうのもあるけどな」
寿々芽「……」
浩紀「ルックスだけやない。乗るたび腕上げてるわ。
 今、逃げ馬に乗せたら東西合わせても五本の指に入
 るのとちがうか」
   浩紀、ピシリと銀を打つ。
浩紀「詰みや。片づけといてや」
   立ち上がり食堂を出ていく浩紀。盤上をじっ
   と見つめたままの寿々芽。

〇京都競馬場・芝コース【翌日】
   最後の直線。一頭大きく遅れてゴールする寿々
   芽の騎乗馬。観覧エリアから汚いヤジが飛ぶ。
   唇を噛みしめる馬上の寿々芽。

〇栗東トレセン・三門厩舎【数日後】
   馬房の清掃をしている寿々芽のところへ久和
   がやってくる。
久和「寿々芽、泰道が来てくれって言うとる」
寿々芽「木本先生が」
久和「ああ――寿々芽よ」
寿々芽「はい」
久和「いつまでも馬乗りしながら厩仕事やってるわ
 けにもいかんやろ。同期でそんなんやってるの、
 もうおまえだけやろうが。もう潮時とちがうか」
寿々芽「……すみません。木本先生のところへ行っ
 てきます」
   久和の横を過ぎ、馬房を出ていく寿々芽。そ
   の背に久和。
久和「ええ攻め馬するよおまえは。いっしょに重賞
 勝てる馬作ろうや、な」
   一瞬立ち止まる寿々芽。歩いていく。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前
   寿々芽、泰道、剛市が並んで立っている。馬
   房の中で、鹿毛馬が背を向けて寝そべってい
   る。
寿々芽「あの、先生」
泰道「マリアラパス。牝馬。二歳。春に入厩した。
 馬主は林原さんや。ゲート試験はすんなり通った
 んやけどな」
剛市「マリアラパス云うのは、ポルトガル語で『お
 てんば娘』っちゅう意味らしいわ」
泰道「おてんばどころの騒ぎかい。こんな馬知らん
 で、ほんま」
   のそっと立ち上がるマリアラパス。そのまま
   馬栓棒に突撃し、三人を威嚇。
寿々芽「うわっ! なにこいつ!」
剛市「な、手ぇ焼いとるんや、わしも」
   また背を向け寝転がるマリアラパス。
泰道「こいつやってみるか、寿々芽」
寿々芽「え、『やってみる』って?」
剛市「出走できるように調教してくれって言うて
 はるんや、テキは」
泰道「おまえの先々のことも考えたら、こういう
 クセ馬に慣れとくのもええやろと思ってな。ど
 うや、やってみんか。アニキには了解もらえて
 る」
   寝転がったマリアラパスの背中をじっと見
   つめる寿々芽。

〇同・木本厩舎・馬房前【翌日】(早朝)
   マリアラパスの曳き運動をしている剛市の
   ところへ寿々芽がやってくる。
寿々芽「おはようございます――ってエビさんど
 うしたんですか。汗ビショビショじゃないです
 か」
剛市「どもならんで、ほんま。鞍つけるだけで一
 苦労なんや、この馬。ほれ、選手交代や。乗り
 運動頼むわ」
寿々芽「あ、はい」
   騎乗する寿々芽。歩かせようとするが
   動かないマリアラパス。
寿々芽「……なるほどね、そうまでして馬肉にな
 りたいわけね、あんた」
剛市「おい、寿々芽。なに言うてるんや」
寿々芽「『担当馬を人と思って接してる』ってエ
 ビさんいつも言ってるでしょ。だからわたしも。
 まともに装鞍も乗り運動もさせない馬の生末は
 ひとつだね。ご愁傷様」
   動き出すマリアラパス。
剛市「おっ」
寿々芽「ははっ。こういういきがってるだけのヤ
 ンキー娘は脅すのがいちばんです」
厩舎周りを一周して戻ってくる人馬。マリアラパ
 ス止まり、膠着。
寿々芽「……あんたねぇ。五周でしょ。続けなさ
 いよ、ほら」
   合図を送るも、無視のマリアラパス。馬房
   へ戻ろうとする。
寿々芽「ちょっと、帰るつもり!? 止まりなさ
 いよバカ!」
  後ろ足で立ち上がるマリアラパス。
寿々芽「うわっ!」
   振り落とされる寿々芽。怒りの形相で立ち
   上がる。
寿々芽「あんた、いいかげんにしなさいよ!
――うわっ!」
  寿々芽の肩に噛みつくマリアラパス。慌てて
  曳き手綱を取る剛市。肩を押さえてうずくま
  る寿々芽。
剛市「寿々芽、大丈夫か!?」
寿々芽「――はい」
   歯をむき出し、寿々芽を威嚇するマリアラ
   パス。マリアラパスを睨む寿々芽。
寿々芽「エビさん、わたしこの馬絶対走らせます――
 よく聞け! 今日からあんたの専属調教助手は
 わたしだ! わたしの名前は橘川寿々芽! 
 覚えときなさい!」
  歯を剥く寿々芽。マリアラパスも負けじと。
剛市「前途多難もええとこやな……」
   人馬の威嚇合戦が続く。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房【翌日】(早朝)
   マリアラパスに装鞍している寿々芽と剛市。
剛市「二人でやったらなんぼか早いな」
寿々芽「隙があったら寝ころぶとか、ありえない」
  どうにか装鞍を終える二人。

〇同・馬房の前(早朝)
   手綱を取り曳き運動を始める寿々芽。素直
   に歩くマリアラパス。
    ×     ×     ×
   乗り運動。マリアラパス鞍上の寿々芽。
   素直に周回を続ける同馬。
寿々芽「なんで? 昨日はあんなに言う事聞かな
 かったのに」
剛市「気まぐれなんや、とにかく。今日は歩きた
 い気分なんやろ」
寿々芽「気まぐれ……」
   泰道がやって来る。
寿々芽「おはようございます」
泰道「今日は大丈夫そうやな。初日から災難やっ
 たな寿々芽」
寿々芽「はい。少し痛みはありますが、なんと
 もないです」
泰道「よっしゃ。そしたら今日はウッドチップ
 コース一周半させてみてくれ」
寿々芽「ペースは」
泰道「好きなように走らせてみてくれ」
寿々芽「好きなように、ですか」
泰道「ああ。好きなようにしか走らんから、こ
 の馬。まあ、乗ったらわかるわ」
寿々芽「はあ」

〇同・調教コース(早朝)
   ウッドチップコースを走るマリアラパス――
   首を振り物見を繰り返す。ペースを急に
   落としたかと思えば急加速。
   また減速。いきなり斜行して大外へ向かって
   いく。御すことができず、完全に翻弄されて
   いる鞍上の寿々芽。

〇同・調教スタンド前(早朝)
   泰道と剛市の前に戻ってくる人馬。
   無言で下馬する寿々芽。
泰道「どうやった」
寿々芽「――なんて答えると思います?」
泰道「……うん」
寿々芽「わたし自分でも攻め馬は上手い方だと思っ
 てるんです。三門先生もそう言ってくれてるし」
泰道「ああ、俺もそう思っとるよ」
寿々芽「全く言う事聞かない馬なんて初めてです。
 よくゲート試験通りましたね」
泰道「一発や。ここはしっかりやらなアカンって
 いうのが分かってたみたいやな」
寿々芽「質が悪い……」
泰道「やっぱり、無理か?」
   俯く寿々芽。噛まれた左肩に手をやり、マ
   リアラパスを見る。
寿々芽「いえ、やります。いきなり白旗なんて上
 げてられませんよ」
  マリアラパス、まさに『馬耳東風』という風
  情で立っている。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房内【翌日】(早朝)
   馬房内清掃を、剛市といっしょにしてい
   る寿々芽。
寿々芽「木本先生が攻め馬するのなんて久しぶ
 りでしょ」
剛市「ああ。クセ馬扱うの昔から上手かったから
 な。GⅠ7勝騎手のお手前で少しでも目が変わっ
 てくれたらええんやけどな」
   調教を終えた泰道がマリアラパスを曳いて
   戻ってくる。手綱を受け取り、同馬を馬房に
   入れる寿々芽。
寿々芽「どうでした」
泰道「一週目は普通に走った。けどそこで止まった」
寿々芽「止まったぁ?!」
泰道「ああ。勝手に減速して勝手に止まりよった。
 コースのど真ん中でや」
●インサート(調教風景)
   ウッドチップコースの真ん中で膠着している
   マリアラパス。鞍上の泰道がいくら指示を出
   しても動かない。
泰道「みんな爆笑してたわ。他人事や思うてから――
 期限切るわ、もう」
寿々芽「期限」
泰道「ああ。一か月や。入厩して半年。後一か月で
 まともに走れるようにならんかったら、競走馬登
 録抹消や。寿々芽」
寿々芽「はい」
泰道「ここまで気性に難のある馬は俺も初めてや。
 どの調教師でもそう言うやろ。正直無理な気が
 する。それでもやるか?」
寿々芽「競走馬試験に通ったんですよね」
泰道「ああ、そやからここにおる」
寿々芽「ゲート試験も通ったんですよね」
泰道「ああ、きれいに入ってきれいに出た」
寿々芽「わたし、この馬はただの気性難じゃない
 んだと思ってます」
泰道「どういうことや」
寿々芽「噛まれて分かりました。甘噛みよりちょっ
 と強め。でも痛みの残る脅しの噛み方。全部分
 かってやってるんです。相当頭いいですこの馬。
 人間小馬鹿にして喜んでるんです」
泰道「かもしれんな」
寿々芽「嘗められたまま終われませんよ」
   マリアラパスのブラッシングを始める寿々
   芽。盛大に小便を始める同馬。
寿々芽「女の子でしょ! はしっこいってやると
 かしなさいよ!」
   やはり『馬耳東風』のマリアラパス。

〇同・調教コース【数日後】(早朝)
   芝コースで浩紀騎乗の馬と併せ馬調教をし
   ている寿々芽鞍上のマリアラパス。
   浩紀の馬を何度も噛みにいこうとする同馬。
   避ける浩紀。必死で制する寿々芽。それで
   も噛みつきにいこうとするマリアラパス。

〇同・調教コース・調教スタンド前(早朝)   
   下馬する寿々芽と浩紀。寿々芽につめよる
   浩紀。
浩紀「ボケ! なんやそのクソ馬!」
寿々芽「ごめん……」
浩紀「ふざけんな! 併せ馬なんか百万年早いわ!」
   激怒しながら去っていく浩紀。
寿々芽「クソ馬……」
   マリアラパスを睨みつぶやく寿々芽。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前【数日後】
  (早朝)
   背中を向けて寝ているマリアラパス。
   寿々芽が身を乗り出して叫んでいる。
寿々芽「起きろ! 調教の時間だよ!」
   反応をみせないマリアラパス。
寿々芽「起きろつってんだバカ馬!」
   尻尾を立て、ふるふると二、三度振るマリ
   アラパス。だが、起きない。
寿々芽「んあああっ!」

〇同・厩舎から調教コースへの道(早朝)
   かなりの速さで疾走するマリアラパス。
   御せない鞍上の寿々芽。
寿々芽「走るな、バカ野郎~~っ!」

〇同・調教コース・調教スタンド前(早朝)
   動かないマリアラパス。寿々芽が指示を出
   しても無視。くるりと向き直り、もと来た
   道を今度はしずしずと戻り始めるマリアラ
   パス。御せない寿々芽。
寿々芽「バカ野郎……」

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前(夜)
   一斗缶を前に置き、パイプ椅子に座ってい
   る寿々芽。一斗缶の上にはビールのロング
   缶とゆがいたスナップえんどうの皿が乗っ
   ている。背中を向けて寝そべっているマリ
   アラパス。
寿々芽「晃子ママがゆがいてくれたえんどう豆も
 あんたのお尻見て食べるとおいしさ半減だわ。
 それでもわたしは今こうしてる。なんでだか分
 かる?」
   微動だにしないマリアラパス。
寿々芽「海野さんにあんたのこと相談したんだよ。
 そしたらさ『馬には乗ってみよ、人には添うて
 みよ、乗った馬には添うてもみよ、や』だって。
 で、その実践してるってわけ。知ってる、海野
 穣一。牝馬GⅠ十二勝『牝馬のジョー』の助言
 だよ。ねえ聞いてんの? ちょっとは反応しな
 さいよ」
   立ち上がり、馬房の前から離れる寿々芽。
   曇った夜空を見上げる。
寿々芽「星も見えないか――」
   ロング缶をグビリとやる寿々芽。滲む涙を
   指で拭う。
   馬房の前に戻るとマリアラパスが立ち上がっ
   ており、一斗缶のスナップえんどうの皿に向
   かって首を伸ばしている。
寿々芽「センチメンタルな気分にもさせてくれない
 のかよ、あんたは――えんどう豆は大丈夫だったな、
 確か」
   スナップえんどうを掌に置き、マリアラパス
   の口元に差し出す寿々芽。食べるマリアラパ
   ス。
寿々芽「ねえ、人間小馬鹿にするのもいいけどさ、
 ちょっとは真面目に走ろうよ。じゃないとあんた
 本当に馬肉だよ」
  スナップえんどうを食べ終えるマリアラパス。
  今度は寿々芽の持っているロング缶に首を伸
  ばしかける。
寿々芽「ビールを飲もうとするんじゃない!」
   慌ててその手を後ろに引く寿々芽。

〇同・木本厩舎・馬房前【数日後】(早朝)
   マリアラパスの乗り運動をしている寿々芽。
   やって来た剛市が声をかける。
剛市「今日はえらい素直やないか」
寿々芽「そういう気分なんじゃないですか」
剛市「ずっとこうやったらええんやけどな」
寿々芽「そんなわけないじゃないですか――
 正直わたしも自信なくなってきました」
剛市「そうか……」
   乗り運動を続ける人馬。

〇同・調教コース(早朝)
   ウッドチップコースでマリアラパスを走ら
   せている寿々芽。

〇同・調教スタンド前(早朝)
   戻ってきた人馬。泰道と剛市の前で下馬す
   る寿々芽。
泰道「無難に回ってきたやないか」
寿々芽「やる気なしモードですね」
泰道「なんやそれ」
寿々芽「素直に反応して、適当に流して走ってお
 仕事終わり。早く帰って寝たいのわたし、って
 やつです。何日か前もありました」
泰道「よう分かってきたやないか、この馬のこと」
寿々芽「そりゃ毎日乗ってれば。他の馬の攻め馬し
 てると感動します。馬ってこんなに言う事聞いて
 くれるんだ、って」
泰道「それにしてもこいつ、元気なさそうやな」
寿々芽「そういうふりしてるだけなんです。かまっ
 てちゃんなところもあるから。ほんと、質が悪い」
   剛市に曳かれ馬房に戻っていくマリアラパス
   を見つめる寿々芽。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前(夜)
   一斗缶を前に座り、ビールを飲んでいる寿々
   芽。背を向けて寝ているマリアラパス。
寿々芽「どうしたのよあんた。今日はほんとにやる
 気なしモードだね。夕飼いも残しちゃったし。ま
 あそういうご気分なんでしょうけど――ほら、こ
 れなら食べるんでしょ。この前みたいに全部食べ
 ないでよね」
   スナップえんどうを乗せた掌を馬房の中に差
   し入れる寿々芽。マリアラパス、反応をしな
   い。ガフガフと咳き込み始める。その咳、だ
   んだんと大きくなっていく。
寿々芽「え」
マリアラパス「〈ガフッ…ガフフッ!〉」
寿々芽「ちょ、ちょっと……」
   寝返りをうつマリアラパス。両鼻孔から大量
   の鼻汁が溢れ出ている。激しく咳き込み、苦
   しげに身をよじる。
寿々芽「うそっ!」
   慌ててスマートフォンを取り出す寿々芽。
    ×     ×    ×
   馬房の中でマリアラパスの診察をしている獣
   医師を、寿々芽、泰道、剛市が見守っている。
   出てくる獣医師。
獣医師「感冒。風邪や」
泰道「風邪、ですか」
獣医師「うん。その影響で軽い疝痛おこして便秘に
 もなってる。静脈注射しといたから。ちょっと熱
 高いけど、二三日安静にしてたら治るやろ。明日
 薬持ってくるわ」
泰道「ありがとうございました」
   頭を下げる三人。立ち去る獣医師。
剛市「朝に体温計ったときはいつもどおりやったん
 やけどな。気づいてやれんかった」
寿々芽「わたしのせいです。かまってちゃんだなん
 て言って……」
泰道「気にするな。ただの風邪や。じきにようなる」
寿々芽「先生」
泰道「ん?」
寿々芽「この馬――マリアラパス、このままちゃんと
 走れないままだったら、本当に競走馬登録抹消なん
 ですか」
泰道「最後は林原さんの判断になるけどな。なんの利
 益も生み出さん馬を飼い続けるわけにもいかんやろ。
 競走馬は経済動物や」
寿々芽「経済動物――」
泰道「ああ。それが現実や」
   寝ころんで苦し気に咳き込むマリアラパスをじっ
   と見つめる三人。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前【翌日】
   パイプ椅子に座り、寝ころんでいるマリアラパス
   を心配げに見ている寿々芽。
   そこへやって来る晃子。
晃子「寿々芽ちゃん」
寿々芽「晃子ママ」
晃子「おじや作ってきた。なんか食べんと寿々芽ちゃん
 が病気になるよ」
寿々芽「ありがとうございます」
   土鍋の乗った盆を受け取る寿々芽。
晃子「よっぽど心配なんやねえ」
寿々芽「熱があまり下がってなくって。ボロもしな
 くって……本当に風邪なのかな」
晃子「風邪よ。獣医さん、そない言わはったんやろ」
寿々芽「そうだけど……」
晃子「風邪ひいた馬はわたしもたくさん見てきたから
 分かる。今夜が熱のピークとちがうかな」
寿々芽「今夜が」
晃子「情けない顔して。ほら、おじや食べて元気だし
 て。エビとホタテの入った特製海鮮おじややで」
寿々芽「すみません、いただきます」
   おじやを食べ始める寿々芽。
寿々芽「おいしい……」
晃子「うちの人が寿々芽ちゃん褒めてたよ」
寿々芽「え」
晃子「なんとかしようって必死になってくれてる。
 あいつの熱意には頭が下がる、言うてね」
寿々芽「……」
晃子「寿々芽ちゃんの気持ち、きっとマリアラパスに
 通じるよ」
   マリアラパスの背中をじっと見つめる寿々芽。
  
〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房の前~中(夜)
   椅子に座ったままでいる寿々芽。激しく咳き
   込むマリアラパス。寿々芽立ち上がり馬房の
   中へ入る。同馬に寄り添って座る。馬体を優
   しく撫で始める。
寿々芽「苦しい? 晃子ママ『今夜がピーク』って
 言ってたもんね。薬もちゃんと飲んだし、もうちょっ
 との辛抱だからね」
   首を曲げ、寿々芽を見るマリアラパス。
寿々芽「なによその顔。いつもの元気はどこに行った
 のよ――熱で便秘かあ。わたしも風邪ひいたらそう
 なるよ。いっしょだね」
   マリアラパスの腹を優しく撫でさする寿々芽。
寿々芽「ねぇ、わたしもう潮時なのかな。姫香にも
 ずいぶん差をつけられちゃったしさ。いい子だよ
 姫香。本当にいい子。全然天狗になってないし、
 態度も変わらない。でも、わたしはあの子に嫉妬
 してる――ほんと、ちっちゃいよね、わたしって」
   ガフガフ咳き込むマリアラパス。寿々芽、
   腹を撫でさすり続けながら。
寿々芽「馬肉とか言ってごめんね。経済動物なんて、
 嫌な言葉だよね。あのね。あんた――マリアに乗っ
 てるときにね、『おっ』って思う瞬間があるんだ。
 あのままずっと走ってくれたらなって、思うんだ。
 あのままのマリアに乗れたらなって、そう思うんだ」
   マリアラパスを愛撫し続ける寿々芽。
    ×     ×    ×
   マリアラパスの体に身をもたせかけ眠っている
   寿々芽。
    ×     ×    ×
   朝。立っているマリアラパス。身を屈め、眠る
   寿々芽の顔を嘗める。目覚める寿々芽。
寿々芽「……ん、んぅ?」
   マリアラパスの舐りは止まらない。
寿々芽「分かった。分かったからちょっと待ちなよ」
  身を起こす寿々芽。マリアラパスの顔を手挟み、
  その双眸を見る。
寿々芽「熱、下がったんだね。よかった」
   顔を寿々芽の胸になすりつけるマリアラパス。
寿々芽「なに急に甘えてんのよ。あれだけ好き放題
 してきてさ」
   盛大に脱糞するマリアラパス。
寿々芽「ボロ、出た……って言うかほんとにセンチ
 メンタルな気分にさせてくれないのねあんたってば! 
 女の子でしょ!」
   マリアラパスの首を強く抱きしめる寿々芽。

〇同・調教コース【数日後】(早朝)
   ウッドチップコースでマリアラパスの調教を
   している寿々芽。
寿々芽「ほうっ! マリア! ほほうっ!」
   呼吸の合った人馬の疾走。

〇同・調教コース・調教スタンド前(早朝)
   下馬する寿々芽。泰道、剛市と向き合う。
泰道「ようやってくれた」
寿々芽「ありがとうございます」
泰道「怪我の功名ならぬ風邪の功名のところも
 あったけどな」
寿々芽「はい、ですね」
泰道「この馬の能力、どう思ってる?」
寿々芽「まだまだ粗削りです。ようやく言う事
 聞くようになったんですから。でも、その分
 伸びしろは大いにあると思います」
泰道「うん。俺はな、この馬は重賞勝てる力は
 十分持ってると思う」
寿々芽「重賞、ですか」
泰道「その力を今寿々芽が引き出しかけてるんや。
 三週間後の新馬戦、乗ってみるか」
寿々芽「え、わたしで、いいんですか」
泰道「林原さんには言うとく。断ることはないやろ。
 連にでも来たらおまえのお手馬や。けど下手うっ
 たら替えるぞ。ええな」
寿々芽「はいっ! ありがとうございます!」
剛市「よかったな、寿々芽」
寿々芽「はい!」
泰道「レースに行ったら思い切って逃げてみろ。こ
 の馬に小細工はいらんやろ」
寿々芽「逃げ、ですか」
泰道「そうや」
寿々芽「分かりました」
   マリアラパスの顔を手挟む寿々芽。
寿々芽「いい、マリア。ぶっぱなすよ」
   寿々芽をじっとみつめるマリアラパス。

〇同・厩舎集合地区【三週間後】(早朝)
   昇っていく朝日に照らされる厩舎群。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前
   マリアラパスと対峙している寿々芽。
寿々芽「いよいよだ。上々の追い切り。文句なく仕
 上がったよ。自分で分かってるよね」
   寿々芽の言葉をじっと聞いているマリアラパ
   ス。
寿々芽「わたしはマリアを信じてる。だからマリア
 もわたしを信じて」
姫香「作戦会議中失礼しま~す」
   振り向く寿々芽。姫香が微笑んで立っている。
寿々芽「え――あ、そっか。姫香ジュベナイルフィ
 リーズ乗るのか」
姫香「はい。お久しぶりです。こちらが噂のマリア
 ちゃんですね」
   マリアラパスの前に並んで立つ二人。
寿々芽「そう。栗東最強のヤンキー娘。ほらマリア、
 挨拶しな」
   姫香の差し出した手に鼻づらを寄せるマリア
   ラパス。
寿々芽「ちょっとなにあんた! わたしの初対面の
 ときとえらく違うじゃない!」
  寿々芽に歯を剥くマリアラパス。
寿々芽「なっ……このっ!」
   負けじと歯を剥く寿々芽。その様を見てクク
   クっと笑う姫香。
姫香「息ぴったり。寿々芽さんはすごいなあ」
寿々芽「え? なにがよ」
姫香「全然言う事聞かなかったんでしょ、この馬。
 でもちゃんとデビューさせちゃうんだもん。寿々
 芽さんはやっぱりすごい」
寿々芽「――初GⅠ獲れそう?」
姫香「いやぁ、正直……もちろん精一杯乗りますけ
 ど、アルヌールさんの馬が抜けてます。岩川さん
 と舘さんの馬も強いです。ちょっと付け入る隙が
 なさそうです」
寿々芽「そっか」
姫香「でも、よかった」
寿々芽「え、なにが」
姫香「だって寿々芽さん、前に会ったときより、
 ずっと生き生きしてるから」
寿々芽「そう?」
姫香「はい。運命の出会い果たしたんじゃない
 ですか、マリアちゃんと」
寿々芽「姫香がGⅠ乗る日にわたしはマリアと
 新馬戦なんだな」
姫香「わたし、忘れてませんよ、あの約束」
寿々芽「――うん」

〇阪神競馬場・芝コース
   〈T〉12月 阪神5R・新馬戦・
    一八〇〇m(芝・良)
   ゲートインしているマリアラパス。
寿々芽「さあ、いくよ」
   ゲートが開く。マリアラパス、好スタート。そ
   のまま先頭に立ち、後続を離しにかかる。単騎
   で逃げるその姿にどよめきが起きる。
   三コーナーで二番手以下の馬と十馬身以上の大
   差。いっそう大きくなるどよめき。
寿々芽「騒いでんじゃないわよ!」
   最後の直線に入っても脚色は衰えない。
   軽く鞭を入れる寿々芽。ラストスパート。二番
   手以下を大きく引き離したまま、マリアラパス、
   一着でゴールイン。
   小さくガッツポーズをする寿々芽。

〇同・検量室前
   検量を終えて出てきた寿々芽を泰道が迎える。
泰道「ようやった。見事な逃げ切りや」
寿々芽「はい。マリアがちゃんと応えてくれました」
泰道「そうやな。訂正する。マリアラパスの能力はGⅠ
 級や」
寿々芽「GⅠ……」
泰道「これからも頼む」
   手を差し出す泰道。
寿々芽「はいっ!」
   強く泰道の手を握る寿々芽。

〇京都競馬場・芝コース
〈T〉1月 京都競馬場9R 白梅賞・芝一六〇〇m
   (芝・稍重)
   逃げているマリアラパス。大きく離された後続
   馬群の中の一頭に騎乗している浩紀。
浩紀「あのクソ馬ぁ~~」
   悠々とゴールするマリアラパス。

〇京都競馬場・芝コース
   〈T〉2月 京都10R エルフィンステーク
    ス・一六〇〇m(芝・良)
   逃げているマリアラパス。離れた後続馬群の中
   の一頭に騎乗している浩紀。
浩紀「ははは……あかん、次元が違う」
   楽々とゴールするマリアラパス。

〇栗東トレセン・調教スタンド内・食堂【数日後】
   うどんを食べている寿々芽の前に浜田がやって
   来て座る。
浜田「絶好調やないの」
寿々芽「おかげさまで」
浜田「三歳牝馬戦線の話題、マリアラパスが独占やなあ」
  スポーツ紙を差し出す浜田。
浜田「今日のうちの関東版。競馬面見てみ」
   箸を置き、スポーツ紙を開く寿々芽。
   競馬面に大きく〈姫香、マリアラパス強奪宣言!?
   「一番強い馬に乗りたい!」〉と掲載されている。
寿々芽「え……」
浜田「おてんば娘に乗るプリンセス。絵になる光景では
 あるよなあ」
   紙面をじっと見つめる寿々芽。そのときスマートフォ
   ンが鳴る。取り出す寿々芽。姫香からである。電話に
   出る寿々芽。
寿々芽「はい、もしもし」
姫香(声)「〈もしもし、寿々芽さん。おはようございます〉」
寿々芽「おはよう姫香。どうした」
●〈画面二分割。電話でやりとりする二人の顔のアップ〉
姫香「あの、こっちのニッポウスポーツに載ってて、ネッ
 トのニュースにもなってたから。あの、あの、わたし――」
寿々芽「優しい記者さんに教えてもらって、ちょうど記事
 読んでたところなの」
姫香「そうなんですか。違うんです。わたし、そんなこと
 言ってないんです。聞いてもらえますか。聞いてほしい
 んです」
寿々芽「うん。聞くよ」
姫香「記者の人から『マリアラパスに乗ってみたいと思う?』っ
 て訊かれたんです。だからわたし『あんな能力の高い三
 歳馬、騎手だったら誰でも乗りたいって言うと思います』っ
 て言っただけなんです。その後わたし言ったんです。
 『でもあの馬は寿々芽さんがすごく時間かけて苦労して、
 ちゃんと走るように調教した馬だから、だれにも乗る権利
 なんかない』って。でも、そこは全然載せてもらえてなくって……」
寿々芽「そっか。うん。分かった。もうなんも言わなくて
 いいよ」
姫香「わたし、新聞読んでびっくりして。強奪とか、そん
 なのわたし、言ってない……あんなの、ひどい。ひどいです……」
●〈画面二分割終了。姫香の顔、消える〉
寿々芽「こらぁ泣くな。大丈夫、分かったから。わざわざ
 電話ありがとうね。うん、うん。分かったってば。なに
 謝ってんの。今度こっちきたらご飯行こうよ。うん、うん。
 じゃあね。ありがとうね。うん。じゃあね」
   電話を切る寿々芽。またうどんを食べ始める。
浜田「姫香ちゃん?」
寿々芽「ええ」
浜田「なんて?」
   新聞を突き返し、浜田を睨む寿々芽。
寿々芽「あのさあ、こんなこと書いてるからマスゴミなん
 て言われるんじゃない? 分かってんのほんとに」
浜田「キツイなあ」
寿々芽「女の戦い無理やり仕立て上げて商売にしようなん
 て、おたくの新聞も相当性根が腐ってますよね」
浜田「キッツイなあ。さすがケンカスズメ」
寿々芽「そのあだ名最初につけてくれたのもおたくの新
 聞でしたよね」
   仏頂面でうどんを食べ続ける寿々芽を苦笑して見
   ている浜田。

〇前同・木本厩舎・マリアラパス馬房前【二週間後】(夜)
   パイプ椅子に座り、一斗缶を前にしている寿々芽。
   マリアラパスが顔を向けて寝そべっている。
寿々芽「分かるマリア。ノンアルだよ」
   ノンアルコールビールの缶をマリアラパスに見せ
   る寿々芽。
寿々芽「初の重賞騎乗だもんね。気合の現れってやつよ」
   ビール缶を一斗缶の上に置き、立ち上がる寿々芽。

〇前同・馬房の中(夜)
   馬房に入る寿々芽。寝そべったままのマリアラパ
   スの背に跨ろうとするが、動きを止める。
   服を脱いでいく寿々芽。全裸になる。
寿々芽「同じだよ」
   マリアラパスの背に跨り、上半身を馬体に横たえ
   る寿々芽。
寿々芽「また二人でぶっちぎろうね。そんで四戦無敗で
 桜花賞だ。GⅠだよ。舘さんいるよ。柴野さんも岩川
 さんも海野さんもいる。関東の岡本さんも横道さんも
 いる。アルヌールもクレマンもいる。浩紀は、いない。
 へへへ――姫香もいる。ジュベナイルフィリーズ四着
 になった馬で出てくるよ。やっと約束果たせるんだよ」
   マリアラパスの耳に口を寄せる寿々芽。
寿々芽「勝ちたいんだ、姫香に。あの子に勝ちたい。姫
 香より先にGⅠ獲りたい――愛してる。だれにも渡さ
 ない」
   マリアラパスの首を優しく抱きしめる寿々芽。じっ
   と動かないマリアラパス。

〇阪神競馬場・芝コース
   〈T〉3月阪神11Rチューリップ賞(GⅡ)
    一六〇〇m(芝・良)
   スタート前地点。輪乗りをしている出走各馬。
穣一「寿々芽」
寿々芽「はい」
穣一「ええ馬に逢うたな」
寿々芽「――はい」
    ×     ×    ×
   ゲートインしている各馬。ゲートが開き全馬
   飛び出す。ハナを切るマリアラパス。いつも
   のような単騎の逃げ――と思いきや、穣一の
   馬が後を追う。一馬身半の差を保って追走し
   続ける穣一。
   寿々芽、チラッと後ろを振り返る。ニヤッと
   笑う穣一。
穣一「逃げ馬は寿々芽の馬だけやないぞ!」
   そのまま三コーナーにかかる。穣一の馬が半
   馬身まで迫る。
寿々芽「海野さん!」
穣一「ああ?!」
寿々芽「強い逃げ馬はこの馬だけです!」
   鞭を入れる寿々芽。マリアラパスが伸びる。
   一気の加速。穣一の馬を置き去りにするマリ
   アラパス。
穣一「あっちゃー……言うてくれるなあ」
   一着でゴールインするマリアラパス。
    ×     ×    ×
   レース後。コース上での勝利馬の口取り式。
   手綱を取っている笑顔の林原(55)。鞍上
   の寿々芽に声をかける。
林原「ここまで走るとは思わなかったなあ、この馬。
 よくやってくれたね橘川くん」
寿々芽「はい。ありがとうございます」
林原「桜花賞も期待していいね」
寿々芽「はい!」
   笑顔で写真に収まる二人。

〇栗東トレセン・木本厩舎・マリアラパス馬房前
   【一週間後】
   マリアラパスの顔を撫でている寿々芽。
寿々芽「いよいよだよマリア。桜花賞、クラシックだよ。
 一番人気もらえるかもよ。すごいところまで来たよね。
 夢じゃないんだもんね――」
泰道「寿々芽」
   寿々芽が振り返ると泰道が立っている。
寿々芽「先生」
   真剣な表情の泰道。
泰道「事務所まで来てくれ」
寿々芽「はい?」

〇同・木本厩舎・事務所
   机を挟んで向かい合ってソファに座っている寿々
   芽と泰道。うつむいている泰道、無言。
寿々芽「あの、先生」
泰道「寿々芽、あきらめてくれ」
寿々芽「え」
泰道「桜花賞、おまえをマリアラパスに乗せることは
 できん」
寿々芽「――――乗り替わり、ですか」
泰道「ああ」
寿々芽「あの、わたし、なにかミスしたでしょうか」
泰道「いいや。おまえはなにもミスなんかしてない。
 マリアラパスがここまで来られたのは、だれより
 もおまえのおかげや」
寿々芽「じゃあ、なんで」
泰道「俺はマリアラパスにはずっと寿々芽に乗って
 もらうつもりやった。けど、力が及ばんかった」
寿々芽「どういうことですか」
泰道「林原さんが、早坂をな」
寿々芽「え――」
泰道「早坂をマリアラパスにどうしても乗せたい、
 言うてな。チューリップ賞の日の夜から言うて
 きてな」
寿々芽「いやだっ!」
   立ち上がる寿々芽。
寿々芽「なんで、なんで姫香が! そんなのおか
 しい! 舘さんや海野さんなら納得する! 悔
 しいけど無理やり納得する! でも替わるのが
 姫香なんて、そんなの……そんなの絶対納得で
 きない!」
泰道「落ち着け、寿々芽」
寿々芽「わたし、あの子に負けてる。それは認め
 ます。でも、マリアと出会って変わったんです。
 先生だって、それは分かってるはずです」
泰道「ああ」
寿々芽「わたしは、わたしはマリアといっしょに
 GⅠ勝つんだ! 桜花賞勝つんだ!」
泰道「すまん」
寿々芽「なんで……なんで断ってくれなかったん
 ですかっ!」
泰道「断った! この一週間毎日林原さんから電
 話や! そのたび断ってきた! 俺かてマリア
 にはおまえを乗せたい! あの馬の力をいちば
 ん引き出せる乗り役はおまえや! 俺がいちば
 ん分かってる!」
寿々芽「じゃあ、じゃあ、なんで」
泰道「――替えんと転厩させる言われたらどうし
 ようもないやろ」
寿々芽「転厩……」
泰道「ああ。脅しやない。十年ほど前や。持ち馬の
 ローテーションが気に食わんから転厩させたこと
 があるんや、林原さんは」
   俯いている泰道をじっと見つめている寿々芽。
   やがて立ち上がり、事務所を出ていく。

〇同・路上
   茫然自失の体で歩く寿々芽。

〇同・木本厩舎・マリアラパス馬房前
   マリアラパスと対峙する寿々芽。その双眸を見
   つめる。その顔を手挟む。寿々芽の目から涙が
   溢れ、零れ落ちていく。泣き出す寿々芽。
寿々芽「あっ、あぁっ……あぁぁ……うぁっ、んあぁっ……
 あぁぁっ」
   やがて地面に突っ伏す寿々芽。
寿々芽「あぁ~~っ……んあぁぁっ……」
   泣き続ける寿々芽。拳で地面を叩く。
寿々芽「なんで、なんでぇっ……桜花賞、マリアと、
 わたしのマリアと……」
   泣きじゃくる寿々芽をじっと見つめるマリア
   ラパス。泰道がやって来る。号泣する寿々芽
   に声をかけることができず、無言で立っている。
寿々芽「あぁっ……んぁぁっ……乗るんだ、
桜花賞、マリアに乗るんだぁ……」
  寿々芽の悲痛な泣き声が厩舎集合地区に響いていく。

〇同・調教コース【三週間後】(早朝)
   ウッドチップコースで追い切り調教中のマリア
   ラパス。鞍上は姫香。

〇同・調教コース・調教スタンド前(早朝)
   戻ってくる人馬。泰道と剛市が待っている。下
   馬する姫香。言葉を交わす三人。マリアラパス
   を曳いて帰っていく剛市。泰道も後に続く。
   姫香も歩きだそうとするが、そこに寿々芽がやっ
   て来る。
姫香「寿々芽さん……」
   対峙する二人。
姫香「あの、わたし……」
   手を前にやり、制する寿々芽。
寿々芽「マリアラパス。三歳牝馬。脚質大逃げ。気性
 難は聡明さの裏返し。ここまで四連勝と絶好調を保
 つ。以上引き継ぎ終わり」
  姫香に背中を向け、立ち去ろうとする寿々芽。立
  ち止まり振り返る。
寿々芽「ねぇ早坂さん。インタビューや取材でわたし
 の名前出すの、もうやめてね。嫌みにしか思えなくっ
 て、気分悪いんだ」
   立ち去る寿々芽。遠ざかるその背をじっと見つ
   めている姫香。

〇同・三門厩舎・馬房【三日後・桜花賞当日】
   馬房の掃除をしている寿々芽。久和がやって来る。
久和「始まるぞ。事務所にはだれもいてへん」
   立ち去る久和。掃除を続ける寿々芽。

〇同・三門厩舎・事務所内
   テレビの前に立つ寿々芽。画面には桜花賞の
   中継が映されている。
   本馬場入場後、返し馬をするマリアラパスと
   鞍上の姫香が映る。
実況アナウンサー「〈話題を呼んだ乗り替わりは勝
 負がかりの現れだ! 大逃げ炸裂でJRA史上初
 の女性GⅠジョッキー誕生となるか! 僅差の二
 番人気、マリアラパス! その鞍上は早坂姫香!〉」
   画面をじっと見ている寿々芽。
    ×     ×    ×
   桜花賞スタート。飛び出すマリアラパス。三馬
   身ほどの差を保つ逃げ。無言で画面を見つめ続
   ける寿々芽。
   最後の直線。じりじり差をつめられるマリアラ
   パス。二頭の馬に追いつかれ、追い抜かれる。
寿々芽「ほ~ら、やっぱり。最初から行ききらないから。
 ははっ」
   三着でゴールインするマリアラパス。
   床に座り込む寿々芽。
寿々芽「あはっ、あははははっ」
   笑いながら泣く寿々芽。

〇阪神競馬場・芝コース【一か月後】
   騎乗馬とゲートに入っている寿々芽。スタート。
   一コーナー手前でバランスを崩し落馬する寿々芽。
寿々芽「……うっ、ううっ」
   足首を押さえ、苦悶する寿々芽。

〇△△病院・外景【一週間後】
   晃子が入っていく。

〇同・病室
   四人部屋。入院している寿々芽。左足をギプスで
   固定した状態で、上半身を起こしてベッドに横に
   なっている。入ってくる晃子。
晃子「お久しぶり、寿々芽ちゃん」
寿々芽「晃子ママ」
晃子「お見舞い遅くなってごめんね。クッキー焼いてき
 たんよ。でも捻挫で済んでよかったね。不幸中の幸い
 や」
寿々芽「はぁ、まあ」
   ベッド脇の椅子に座る晃子。
晃子「痩せたんやない? 病院のごはん、ちゃんと食べ
 てるのん?」
寿々芽「……」
晃子「この前、わたしうちの人とお兄やんにブチ切れて
 しもうたん。二人がね『他馬との接触もなしに落馬す
 るのは、気が抜けてるからや』なんて寿々芽ちゃんの
 こと話ししてたからね。もう腹たって腹たって『あん
 な理不尽な乗り替わりされたらだれかて気も抜けて落
 馬のひとつもするわ! アホか!』言うてね。二人と
 もなにも言い返せへんかった」
寿々芽「はは……先生たちの言うとおりです」
晃子「けど、調教に遅刻するのや出てきぃひんのはやっ
 ぱりあかんよ、寿々芽ちゃん」
寿々芽「……」
晃子「――今日のオークス、見ぃひんの?」
寿々芽「勝ちますから」
晃子「え」
寿々芽「マリア、オークス勝ちます。鞍上も桜花賞で
 分かったはずです、マリアの乗り方。府中の直線は、
 マリアにとって最高の舞台です――桜花賞だって、
 わたしが乗ってたら勝ってました。今日のオークス
 ももちろん。で、夏超えて、ローズステークス叩い
 て秋華賞――牝馬三冠だったんです、マリアは。そ
 の背中に乗ってたのはわたし」
晃子「寿々芽ちゃん……」
寿々芽「でも夢だったんですよね。全部、夢」
   薄く笑う寿々芽。

〇東京競馬場・芝コース
   オークス。最後の直線。二番手以下を大きく引き
   離して逃げているマリアラパス。そのままゴールイン。
    ×    ×    ×
   満場の「姫香」コールの中のウイニングラン。
    ×    ×    ×
   口取り式。林原が満面の笑顔で手綱を取っている。
   凛々しい顔の姫香。
   〈T〉オークス マリアラパス優勝。早坂姫香、
    JRA史上初の女性GⅠ勝利騎手となる。


〇祇園のホストクラブ【一か月後】(夜)
   その外景。

〇同・中(夜)
   ホストたちに囲まれ、酒を飲んでいる寿々芽。
   へべれけではしゃぐその姿。

〇同・店外(夜)
   ホストたちに大きく両手を振り、店を出る寿々
   芽。よろよろと歩き出す。

〇四条通(夜)
   舗道をおぼつかない足取りで歩いていく寿々芽。

〇河原町・バス停のベンチ(夜)
   ベンチに腰かける寿々芽。うなだれ、えづきだし――
   嘔吐する。涎と鼻水が垂れる。涙がぼたぼた落ち続け
   る。
              
〇京都☆☆ホテル・外景【一か月後】(夜)
   
〇同・大広間(夜)
   姫香のオークス優勝祝賀会が行われている。立
   食パーティー形式。大勢の参加者で賑わっている。
   その中に寿々芽もいる。壁際に佇み、水割りの
   グラスを傾けている。近寄っていく剛市。
剛市「来てたんか」
寿々芽「来ちゃいけないわけでも?」
剛市「足、ようなったんやろ。調教には来い」
寿々芽「最近思うんですよ。やっぱりあのとき、わがまま言っ
 て、エビさんに回らないお寿司屋さんに連れていっても
 らっとけばよかったって」
剛市「……待っとる」
   寿々芽の前から去る剛市。
    ×     ×    ×
   参加者を前に、マイクの前に立つ姫香。
   サマードレスを纏った美しいその姿。
姫香「本日は暑い中ご参加いただきありがとうござい
 ます。東京に続き、ここ京都でも優勝祝賀会を開い
 ていただけることを、心より嬉しく思います。これ
 からも一鞍一鞍、大切に乗っていきます。秋華賞も
 勝てるよう頑張りますので、応援のほどよろしくお
 願いいたします」
   深く礼をする姫香。拍手が沸き起こり、そここ
   こでフラッシュが焚かれる。姫香をじっと見て
   いる寿々芽。
    ×     ×    ×
   壁際の寿々芽の前に来る姫香。
姫香「寿々芽さん……」
寿々芽「招待状、ありがとう」
姫香「迷いました……でも、マリアラパスは、寿々芽
 さんが一生懸命――」
  無表情で姫香を見つめる寿々芽。ただじっと見つ
  め続ける。
寿々芽「強奪宣言、本当だったね早坂さん」
姫香「……」
   そこへやって来る林原。
林原「橘川騎手じゃないですか。あなたのことは気に
 なっていたんだ。よく来てくれた。いや度量が大き
 い。アスリートの鑑だ、あなたは」
寿々芽「こちらこそまたお会い出来て嬉しいです。記
 念に握手していただけますか」
林原「もちろん」
   手を差し出す林原。寿々芽も右手を出すが――
   その瞬間、左手に持ったグラスの水割りを林原
   の顔にぶちまける。
寿々芽「ゲス野郎」
   静まり返る会場。しばしの間の後、どよめきが
   広がる。カメラのフラッシュが焚かれる。スマ
   ホを向けている参加者もいる。
泰道「寿々芽っ! なにやってんのや!」
寿々芽「あぁっ! なんだよ!」
   泰道を殺気だった目で睨む寿々芽。
林原「元気がいいお嬢さんだ」
   余裕ある笑みを浮かべ、ハンカチで顔を拭く林原。
   グラスを床に落とし、会場を立ち去ろうとする寿
   々芽。その背に向かい姫香。
姫香「言わないわよ! あなたが憧れだなんてもう絶対
 言わない! 最低! そんなことしか言えないの! 
 こんなことしかできないの! マリアラパスはわたし
 の騎乗馬だ! 秋華賞も獲る! エリ女だってわたし
 が乗って獲る!」
   立ち止まる寿々芽。
姫香「悔しかったら奪い返してみてよ」
寿々芽「――もうどうだっていいんだよ」
   会場を出ていく寿々芽。

〇栗東トレセン・調教スタンド内・食堂の厨  
   房【十日後】
   営業時間外の薄暗い厨房の中。パイプ椅子に座り、
   向かい合っている寿々芽 と穣一。
穣一「処分が下りた。一年間の謹慎や」
寿々芽「謹慎――引退勧告じゃなくてですか」
穣一「ああ。そういう声も馬主会であがったらしいけど
 な。林原さんも不問にするって言うてくれてる。一年
 かけて頭冷やせっていうことや」
寿々芽「あの、わたし、辞めます」
穣一「簡単に言うよなあ」
寿々芽「引退届、書いています。明日にでも提出――」
穣一「ふざけるな! ひとりで生きてるつもりかおまえは!」
   穣一の剣幕に驚く寿々芽。
穣一「三門先生も木本先生も、この十日間、どれだけ走り
 回ってくれたって思ってるのや! 二人して林原さんに
 土下座したいう話しやぞ!」
寿々芽「土下座……」
穣一「俺かてJRAの理事長のところに頭下げて頼みに行っ
 たんや。無駄にしてくれんなよ」
   寿々芽に〈大里育成牧場〉のパンフレットを差し出
   す穣一。
穣一「ほれ。おまえの謹慎先や」
   パンフレットに目を落とす寿々芽。
穣一「俺が初めて重賞勝った馬の育成牧場や。二代目の
 場長となんやしらん気が合うてな。家族ぐるみの付き
 合いしてる」
  パンフレットから目を上げ、穣一を見る寿々芽。
穣一「寮もある。飯つき風呂つき寝床つきや。けど給料
 はないぞ。謹慎中の身やからな、おまえは。理事長に
 も了解もらった。明日にでも正式な通達がくるはずや」
寿々芽「あの、海野さん。なんでわたしなんかのために
 ここまで――」
穣一「寿々芽。俺に颯希っていう中学生の娘がいてるの
 知ってるやろ。保育園の頃から騎手になるのが夢でな。
 いよいよ競馬学校受けさせんと仕方ないとこまできて
 しもうた。この前颯希に言われたわ。『これで寿々芽
 さんが騎手辞めたりしたら、それは騎手会長のくせに
 寿々芽さんを守られへんかったお父さんのせいや!』
 いうて。ほんま、口ばっかり一人前になりよってから」
寿々芽「……」
穣一「あいつの部屋の壁、おまえと早坂の雑誌や新聞の
 切り抜きでいっぱいや。俺はな、おまえら二人は競馬
 界の宝やと思ってる。マリアラパスに出会って掴んだ
 ものがあるんやろ、ん?」
   再びパンフレットに目を落とす寿々芽。
穣一「電話番号書いてあるやろ。ちゃんと電話しとけよ」
   立ち上がる穣一。
穣一「向こうに行ったら日記をつけろ。それを元にして
 二週間に一回、手書きの報告書を俺宛に送ってこい。
 ええな」
   厨房を出ていく穣一。立ち上がる寿々芽。穣一の
   背に深々と頭を下げる。

〇同・調教コースへと向かう道【数日後】(早朝)
   マリアラパスが調教助手を背に、調教コースへと
   向かっている。旅装の寿々芽が、遠ざかるその姿
   を見つめている。
   踵を返す寿々芽。歩き出す。(続)



散文(批評随筆小説等) シナリオ・駒は乙女に頬染めさせて① Copyright 平瀬たかのり 2023-02-15 18:27:26
notebook Home 戻る