秋のホーム
ホロウ・シカエルボク


秋の三連休が明けた月曜日、その日の仕事を片付けて帰りの電車に乗ろうとしたら駅は酷い人込み。ああ、またかと思った。人身事故のため遅れております、とやっぱりの表示。駄目もとでホームに降りてみると撤去作業の真っ最中。物好きな人たちがスマートフォンで楽し気に撮影している。この街の人たちはなにもかもに慣れっこになってしまう。そうでなければここで生きる資格はないとでも言わんばかりに。かくいう私も、もうそんな雰囲気に抗おうという気持ちもすでになくなった。クタクタで、早く帰りたいのに。どんな事情があるにせよこんな日に電車に飛び込まなくたっていいじゃない。野次馬たちと、必要以上に距離を取っている人たちのおかげで椅子は空いていた。腰を掛けて、人身事故で遅くなる、と夫にメール。わかった、と短い返事。私たちはお互いにアプリやメールで話をするのが嫌い。顔を合わせて話すことがいくらでも出来るのだから、それが一番いいじゃない。だから友達も自然にそんな人たちばかり。ラインをしないとおかしい、とか考えている人たちは早々に私と距離をとるようになった。特に意地になってるわけではない。私にとってはそうすることが自然なのだ。それに、スマホを活用していないわけではない。動画サイトばかり覗いているし、近頃は音楽だってずっとスマホで流している。MDつきのミニコンポはもうアンティーク飾り家具のように、本棚の上で押し黙っている。メールをしてしまうとすることが無くなった。三連休は特別どこかへ出掛けたりということはなく、部屋で映画を観たり家事をしたりしていた。リラックスの極意は当り前に自分の時間を過ごすことだ。このぶんじゃ発射まで時間があるだろうし、少し仮眠を取ることにしよう、と決めて目を閉じた。そんなところで眠って大丈夫なのか、と思われるかもしれない。私はどこでも熟睡してしまうタイプだ。そして、公の場でぐっすり眠っている人間って、意外とそのまま放置されるものだ。何かを盗まれたとか、変なことをされたとか、そんなことは一度もなかった。まあ、もちろん、人気の無い非常階段とかで熟睡していたらそんなわけにもいかないだろうけど。今日は人目もたくさんあるし、騒がしい。少し眠るくらいきっと大丈夫だろう。経験から来るその確信は当たっていた。私は何も取られなかったし、何もされなかった。でも、もしかしたら、ほんの少しの干渉が夢の中であったかもしれない。もちろんそれは、私が偶然同じ椅子に腰を下ろしたせいなのだろうけど。

夢の中で私は同じ場所に居て、一人の若いスラっとした男の子が電車に飛び込むところをずっと見ていた。下に巻き込まれたのか、映画によくある血飛沫みたいなものは一切見えなかった。電車が止まり、辺りが静まり返ると景色は巻き戻され、彼は何度も電車に飛び込んでいった。散歩の途中で死んでみようと思ったみたいな、淡々とした歩き方だった。それが十回近く繰り返され、運転を再開します、のアナウンスで慌てて目を覚まし、電車に乗り込んだ。

家に帰って、夕食を夫と食べ、おやすみの挨拶をして自室にこもり―私たちはそれぞれの部屋で別々に寝ている。プライベートは大事、と、お互いに共通する意見を持っている。寝室が別だと長続きしないというけれど、なかなかどうして私たちは大きな喧嘩もなくもう六年は一緒に住んでいる。―バッグの整理をしていると、外ポケットに見慣れないスマートフォンがあるのを見つけた。大変、と思ったけれど、ロックが掛かっていてどうしようもなかった。電車が混んでいたから、誰かのものが紛れ込んだのかもしれない。
(あれ?だけど…)
それなら今までの間に一度ぐらい、持ち主から着信なりなんなりあるのではないだろうか?「探す」という機能もあるわけだし…家のベルが一度鳴らされるくらい、起こっているのではないだろうか…?携帯を失くした経験がないのでわからないのだけど、慌てて探すのが当たり前ではないだろうか。携帯である以上、持ち主は必ず居るだろうし…

持ち主。

それがもう居ないとしたらどうだろう?私は駅のホームの景色を思い出した。もしかしたらこれは…この中には、私が夢で見た光景と同じものが記録されているのではないだろうか?もしそうだとしたら、あの男の子が、私が寝ている間にこれを私のバッグに滑り込ませたのだ。そんな思いつきは不思議なくらいしっくりきた。私はスマートフォンを手に取り、認証画面を出して、自分の肩越しに背後を映してみた。お戯れのつもりだったけど、ロックは外れた。
(まいったな…。)
これ以上は駄目だ、このまま明日警察に届けるべきだ。心の声とは裏腹に私の指先は持ち主の情報をあれこれと探っていた。でも、何も知ることは出来なかった。情報がほとんど空になったスマホに、動画がひとつ入っているだけだった。誰も映っていないあの駅のホームのサムネイル。気になったのは動画の時間だった。十分近くあった。私はイヤフォンを挿して、それを再生した。まだ幼さの残る声が、どうして自分がそこで死のうと思ったのかということを、姿を見せないまま話していた。私はそれを見ながら不思議な思いにとらわれた。ひとりの人間が駅のホームで、こんなにはっきりとした声でこれから死ぬと話しているのに、時折通り過ぎる人たちはまったく関心を示さなかったのだろうか。なにかを撮影しているようだ、最近こういうの多いな―そんな感じだったのだろうか。私は最後まで動画を見て、それから、パソコンを開いてもう一度再生し、場面ごとに止めたり繰り返したりして彼の言葉を一字一句間違えずに書き写した。

『こんにちは。ええと…いいお天気ですね。よかったです。僕は今日、ここで、電車に飛び込んで死のうと思います。たぶん失敗しないで出来ると思います。僕は普段はぼーっとしてるんだけど、こうするって決めた時にはちゃんと出来るんです。まあ、それはともかく…自己紹介はしません。だって、もうこの世から居なくなっちゃうんですからね。なんだろう、ええと、これは遺書とか、そういうわけでもないんだけど、いろんな人に迷惑をかけちゃうわけだし、どうしてこんなところでこんなことをしようと思ったのか、理由をね、話しておこうかなと…ちょっと思ったわけです。僕が死んだあとこのスマホがどうなるかわかんないけど、まあ、誰かが僕の話を聞いて、ちょっと僕のことを考えてくれたら嬉しいかな、とか思って(照れたような笑い声)。何も決めていないのでわかり難いと思います。ついさっき思いついて、その、ノープランって感じで喋っているので。ええと、僕はいま高校生です。二年生です。別にいじめられたりとか、親と上手く行かないとか、失恋したとか、そういうわけではありません。じゃあ何かって言うと…なんだろう…実のところ自分でもよくわからないんですよね。ただ、中学の終わりくらいからかなぁ、ずっと、なんかこう…頭に霧がかかってるっていうのかな、もやもやしてるっていうのか…。病気かなんかかなぁと思って、ネットで調べたりとかしたんだけど、そういうのとはちょっと違う感じかなぁとか思って。精神的なものなのかなぁとか思って、けど特別気持ちがしんどいとか、そういうこともないし…これどうしたらいいんだろうって…でも結局わからないから放っておいたんですよね。でも、高校に入ってちょっとしたくらいかなぁ、なんか、それがすごくウザい感じになってきちゃって…親とか先生にも相談したんだけど、若いうちはよくそういう感じになるもんだ、とか言って笑っちゃうみたいな感じで、あんまり真面目に聞いてくれなくて。そのうちになんかこう…いつかはそこに閉じ込められるんじゃないかなぁ、なんて、そんな風に思ったんですよね。なんて言うか、ずっとそれ、あるんですよ、頭の中に。いや、実害とか、そういうのは別になくって…それで困るっていうことはひとつも無いんだけど、なんだろうな、上手く言えないんだけど凄くそれが嫌になってきちゃって。うん、う~ん…説明するのって難しいですよね。これ聞いた人にしてみたら、どうしてそんなことで電車に飛び込んじゃうの?って感じだと思うんです。でもまあ、一応…一応ね、話しておきたくなったというか。何にも理由がないのにいきなり死んだら、親とか…友達とかが、自分が何かしたんじゃないかなんていう風に悩んだりしたら嫌だなって、思って。そう、これ、でも、話してもなんのことか全然わからないと思います。僕もなんか変だなって思いながら、今日、ここに来ました。でも、多分、死ぬしかないんです。僕は死ぬしか―もうすぐ電車がやってきます。なんだろう、いまね、ちょっといい気分なんですよ、僕。もうくだらないこと考えなくていいんだって、なんかこんな風に言うと馬鹿みたいに思われちゃうかもだけど…うん、とにかく、そんなことです。それじゃあさようなら。こんな風に人生を終わりにするなんて思っても居なかったけど、キャラじゃないかもしれないけど、とにかくお終いです。ありがとうございました。そんなわけだから、誰も僕のしたことで悩まないで居てくれると嬉しいです。』

そうして彼はあっさりとホームから落下する。動画は私が現れて腰を下ろしたところで真っ黒になって終わる。

翌日私は発熱を理由に仕事を休んだ。このご時世だから会社もあまり煩いことは言わなかった。それに、なにしろ勤めて三年目で初めての欠勤なのだ。私は午前遅く、いつもの通勤ルートに則ってあの駅に赴いた。駅員に事情を話し、自殺した人のものかどうかわからないけれど、荷物に誰のものかわからないスマートフォンが紛れ込んでいたと告げた。駅員は私がどこに座っていたか聞いた。私の答えを聞いて、少し真剣な調子でわざわざありがとうございました、と軽く頭を下げた。私も同じようにして、そのまま帰りの線に乗るためにホームを移動した。

次の電車が来るまでに十五分ほどあった。昨日と同じ椅子に座り、プリントアウトした彼の最期の言葉を読んだ。声の調子と同じあどけない理由だった。でもそんなあどけなさはもうこの地球上に存在してはいないのだ。私は顔を上げて、ホームから見える小さな外の景色を眺めた。昨日と同じ穏やかな天気。昨日よりは少し寒い風。私はまだ生きていて、昨日私よりちょっと早くここに居た彼はもう居ない。反対側のホームを急行が通過する。きっと、生まれることにも、生きることにも、死ぬことにも理由なんてない。私たちはみんな、自分をこじつけて生きている。投げ出すことは幸せだろうか。それは一度しか出来ない。だったらそんなものに思いを馳せるべきではないかもしれない。不思議な縁でこのホームですれ違った彼の言葉だって、私はいつか忘れてしまうだろう。なのに私はなにかが悲しくて仕方がなかった。もっと若いころなら声を上げて泣いてしまっていたかもしれなかった。それは説明出来るようなことではなかった。彼の死と同じ、まったく説明出来ない類の感情だった。そして私の乗る電車がやって来た。私はすっくと立って、見知らぬ、まだ生きてる誰かの後ろに並び、そして乗り込んだ。電車が動き出した瞬間、誰かがクスっと笑ったみたいな、少しこそばゆい感じがした。





【了】


散文(批評随筆小説等) 秋のホーム Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-12-05 22:57:24
notebook Home