北園克衛は1930年代にあらわれた一群の若い女性詩人たちの中から特に数名の名を挙げて次のように述べています。
「先日西脇順三郎氏を訪ねたとき、偶然左川ちか氏の話が出て、西脇氏は左川ちか氏の詩が多くの女性詩人の作品中、その教養の豊かさと技術の確實さに於て、作品の純粹にして優秀な點に於て女性詩人の第一位に推されたのであるが、これは西脇氏に限らず新しい詩人が一般に肯く處であつて、この詩人に比肩する詩人は殆ど今の處發見することが出来ないのである。それは山中富美子氏の優れたエセチツクを以つてしても江間章子氏のピュアなアクティヴィテに於ても僅にそれぞれの特質に於て、將來に期待をかけなければならない。そうして私は最近に伊東昌子氏と、西條成子氏の作品に接する機會を得て、日本のオリヂナリティある女性詩人群が、いまや水平線を破つてその新しいゼネレエションを私共に示す日の近いのを切實に思はさせられるのである。それらは、いかなる意味に於ても極めて女性的であり、女性でなければ在り得ない。ピュアリティとアクティヴィテに充溢してゐる。」
「若き女性詩人の場合」『天の手袋』北園克衛 著 (春秋書房, 1933)
この中でもとりわけ期待を寄せられ、二十歳にして北園から「完全な詩人」と称された左川ちかは近年再評価の機運が高まってもいるそうです。
「靑い馬」左川ちか
馬は山をかけ下りて發狂した。 その日から彼女は靑い食物をたべる。 夏は女達の目や袖を靑く染めると街の廣場で樂しく廻轉する。
テラスの客等はあんなにシガレットを吸ふのでブリキのやうな空は貴婦人の頭髪の輪を落書きしてゐる。
悲しい記憶は手巾のやうに捨てようと思ふ。戀と悔恨とエナメルの靴を忘れることが出来たら!
私は二階から飛び降りずに済んだのだ。
海が天にあがる。
「彼女の様な特殊な頭腦は、教養や訓練に待つまでもなく、生れ乍らに完全なのかも知れない。そのやうに彼女の詩も亦、最初の一篇より完成してゐたのだつた。その類推の美しさが、比喩の適切が、對象の明晰がそれらに對する巧妙な詩的統制が僕を驚かせた。
そして今日 まで一篇の駄作も作らなかつたことを僕は彼女の詩に対する純粋にして高尚な態度に歸さうとする者なのである。」(北園克衛「左川ちかと(室樂)」)
北園克衛なども同じですがイメージの飛躍というよりも、それを捉える視点の方が意図的に錯綜させてある(と私は感じる)ので、読者がどのようにでも解釈できるようなところがあり、左川ちかの詩にフェミニズム的な意味を読み取ろうというようなことも可能で、そんなことも近年の彼女に対する再評価のチカラになっているのではなどと推測します。
しかし、この手の詩を「解釈」してしまうのはジグソーパズルを並べて、出来た!と思っているようなもので、実はこのジグソーパズルには裏にも全く違った絵が書かれてあり、表側の絵を揃えると裏側の絵は全然不揃いになってしまうのに気づいていないようなものではないか、と思ってしまいます。
「秋が粉碎する純粹な思惟と影。
私の肉體は庭の隅で靜かにそれらを踏みつけながら、滅びるものの行方を眺めてゐる。
樹の下で旋回する翼がその無力な棺となるのを。」
(左川ちか「葡萄の汚點」より)
残念なことに左川ちかは24歳という若さで病のために夭折してしまいました。 もし彼女が生きながらえていたらどのような詩人になっていったかは「最初の一篇より完成してゐた」だけに、その後の変化というのを想像するのが難しいです。
彼女と同時代に活躍した1930年代のモダニズム女性詩人たちのその後を辿ってみても、その詩人としての才能を伸びやかに育てていけたかどうかについては疑問です。
彼女たちがみな若い女性であったということもあるのか、戦後の消息というのが研究者の方たちは別として私たち一般の読者にはほとんど伝わっていません。
『マルスの薔薇 : ろまん・ぽえじい』の莊原照子は時局に反する言動があったとして、戦争末期に特高警察の監視下に置かれ、やがて消息不明となり、それから十数年後、詩誌『詩学』の1957年12月号に「莊原照子さんの思い出ー城田英子」という「追悼文」が載り、その記事の末尾には「戦前の『椎の木』同人として左川ちかなどとともに活躍した女性詩人。詩集『マルスの薔薇』(昭森社刊)。横浜に住んでいたが、敗戦と同時に仙台にのがれ、直後に病死」とあります。が、しかし彼女は死んではおらず、この「死亡通知」から十年後、詩人としての活動を再開しています。「詩壇の公器」を自負していた『詩学』でさえ、こんなまちがいをしてしまうほど手がかりがなかったわけです。
彼女らの中で世間的に最も成功したのは江間章子でしょうが、彼女の戦後の名声は現代詩人としてよりも唱歌『夏の思い出』の作詞者としてのものですーーーもちろん、それはそれで素晴らしいことなのですが。
『現代女流詩人集』(山雅房, 1940) で中村千尾は、
「詩は私にとつて美學に於ける一つのエキスペリメントに他ならない。私はその意味で自分はまだ一人の女學生に過ぎないと思ふ。
詩に於けるハイブロオの精神、エトナ的精神、これは私の屬するVOUクラブ(舊名)に於て原則として私逹が守つて来た詩精神であつた。この様な強靱なものの中で私は自分の詩を育てて来た事は今は只滿足に思はれる。
純粹な貝殻は比較的最近の作品を集めました。純粹なものへの憧憬と美のために私はこれらの詩を書いたのかも知れない。」
と彼女の信じるモダニズムの詩学への忠節を示しています。彼女は戦後も詩人としての活動を続け、『日付のない日記 』(思潮社, 1965)では、
樹も泣いた
鳥の躯も
馬の白骨も
みんな魔法にかけられて
身うごきもせずに ひつそりと
息をひそめて死の姿を見守っていた
それは堪え難いほど静かな世界だつた
私は死と隣りあわせ
生きた心地もなく現実にたたずんでいるだけだつた
ただ倒れまいとして
(中村千尾「日付のない日記」より)
というような、モダニズムの実験的な美学を現実に消化した詩を書いており、私は好ましく思いました。
ただ、不幸なことに戦後詩史において彼女たちがよりどころとしたモダニズムの理念が、詩に思想と批評性を持ち込んだ荒地派の詩人などによって「サロン趣味的、末梢感覚的なもの」などと言われて徹底的に糾弾され、抹殺されてしまったために、彼女たちの詩にも正当な評価が与えられず、顧みられることもなくなってしまったのではないかと私は思います。
そんな彼女たちに対する 不当な扱いを悔しがる人たちはもちろんたくさんいて、その事自体は結構なことなのですが、ただ、勢い余って彼女らと対照的に詩人として世に迎え入れられた永瀬清子のような詩人に文句をつける人もいるのです。
正直言って私にはそれは言いがかりとしか思えません。詩人といえば谷川俊太郎、というような世間の風潮に反発して谷川俊太郎の悪口を言う人がいるようなものです。
そういう人たちが言うのは永瀬が世に受け入れられたのは 社会(男性)が求めるような 女性の母性的な イメージを彼女が拒まなかったからだ、というわけです。
モダニズムの詩法というのはコトバとそれにまとわりつく既成の意味や関係性をいったん切り離してしまうことによって、自由になったコトバたちを新たな関係性の中に置こうとします。そこに作り出される新しいイメージは女性であることとか、社会の中での役割とかいう価値観から解放してくれるものです。
江間章子がモダニズム詩にはじめて触れたときのことを回想して、
「そして『詩と詩論』をひらいたのであった。一ページ毎に読んでいくうちに自分でも見当のつかない興奮をおぼえた。
それ以上におどろいたことは、自分の住む場所を見つけたような安らかさと大胆さだった。
ジョイスとかコクトオとかエリオットとかブルトン、スペンダーという名前とともに、春山行夫も西脇順三郎も滝口修造も伊藤整、左川ちか、山中散生、北園克衛、阪本越郎もここでおぼえた。それと同時に、おどろいたことにはわりにたやすく、わたしにもかれらに似てまったくかれらとちがう詩を十篇ほど書くことが出来たのであった。」
(『詩へのいざない : 現代詩の理解と作法』 江間章子著 、柴田書店、1957)
と、モダニズムの詩を知ったことによる開放感を記しています。
1930年代の社会的に抑圧された存在であった女性詩人がモダニズムの美学を信奉したのもわかるような気がします。
そして中村千尾の言うような「純粹なものへの憧憬と美」に青春を捧げた女性たちに思い入れのある人たちから見れば、永瀬清子のような姿勢は世渡り上手のようにも不純なようにも見えるのかもしれません。
しかし、少し冷静になれば 分かることですが 、もし世渡り上手なのであれば そもそも詩人になろうなどという野心は抱かないことでしょう。 江間章子がテレビのインタビューに応えて、当時「詩を書くなんてことはよっぽど変わってる人間だと親戚および誰も周りおもいますからね。隠してこっそり書いていましたよ」と語っています。
永瀬清子は先輩詩人である深尾須磨子に女性が詩人として生きることの困難を訴えて言います。
「女性が詩を書くといふことの不幸。 それは誰が知つてゐるでせう。おそらく詩をかく女性でなくてはわからず、そしてそれもすでに若さを過してなほ詩に巻きこまれてゐる私のやうな者こそそれでせう。そしてそのほとんどが中年の家庭婦人である女詩人會の人々でせう。そして多分深尾さんもいくらか。おそらく憲法が何度改正されたとて變ることのできないこの不幸。」
「隣り組の干渉夫人に、彼の病気を治したいなら詩を書いたりするのはおやめなさいと面罵されたこともあったーーー。そしてただ下うつむいて無言でそれをきいてゐただけ。父や母も詩をかくことを私の最も大きな缺點とか言ってゐたーーー 。女性としてむしろむしばまれてゐると言ってよい詩人と主婦との二律背反。一日汗を流しつづけ、重荷を負ひつづけて、夫や子供には苦しみなかれと祈るだけ。そしてその汗や、その重荷を私は自分の詩の中に書きはしないのです。私にとつては詩は全くその汗とごちゃまぜにできない純粋な場所ですから。その兩立が私のエネルギーの最大の毒です。」
「天才的女詩人であるよりは、詩なんかを必要とせぬほどに勤勉でやさしい生活的な母親である方が、どれほどいいことだと思はずにゐられません。大地的な母親であつていい詩をかくといふことは、實はひどい矛盾があるので、そんなことは言葉の上で考へるやうな陶酔的感謝のみがあるはずはありません。それが實に調和的に成りたつてゐる場合には、そこに凡人にけつしてうかがひ知られぬほどの深い痛ましい犠牲がはらはれてゐるにちがひありません。勿論晶子女史の場合のそれは私の想像にすぎませんけれど。そして私自身の場合はそれほどに天才をめぐまれてもゐず、主婦としての完成もしてゐない點だけを差引いて考へなければならないのですけれど。それにしても、捨てがたい詩といふものは何といふ悪因縁がと、ほとほと驚かされます。」
ヴァージニア・ウルフが『自分ひとりの部屋』で「婦人はもし小説を書くとすれば、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない」と言っていることはよく知られていますが、永瀬清子にはおそらくそのどちらもなかったことでしょう。
私は若い頃から永瀬清子の詩を好んで読んできましたが、特に女性詩人であることを意識したことはありませんでした。彼女の積み重ねてきた詩業と高齢になってもなお衰えない創作意欲に驚嘆し、尊敬もしていましたが、それが上に引用したような犠牲をくぐりぬけて来た結果であることなどには思い及んでいませんでした。
「抵抗」永瀬清子
水の抵抗があるので人は泳げる。
現実の不自由はつねに詩の原動力。
「性」永瀬清子
あまりに女らしい人は詩を書く必要がない。 あまりに男らしい人も亦。
彼等は自然につくられたまゝにやっていればよい。
しかし単に中性的であるだけでは詩人ではあり得ない。
人間の叡知、それは最も性に遠ざかる所に生れるが、然し又最も性に近い点に於いて完成す
る。
永瀬清子が詩に取り組む態度は男女にかかわらず手本となります。
「論理のどもり」永瀬清子
なぜとなくいやなことを
なぜいやなのかと問はれても私には答へられない。
その答が出来ない上は
私の欲することを通すわけにはゆかないと可愛さうな私は考へてゐたのだ。
たゞいやと云ふだけで否定することも出来ないし
たゞ好きだと云ふだけで云ひ張ることも出来ないと。
それだけの事で何もかもまちがへてゐたのだ。
それは大變な間ちがひだつたと、三十年も生きた今、やつと氣がつき出したのだ。
私の好ききらひの方が
私の論理より進んでゐたのだ。
私は非常な論理的どもりで
その吃りが、心の底ではよく判つてゐることも云ひかねてゐるだけなのだ。
私は今までその吃りの犠牲になり
色々の忍耐をかさね遠慮ぶかくし
どもり程度にしか自分を信じなかったのだ。それ以上の私を信じること、
これは大したことだ。私の好き嫌ひにはたゞそれだけでもつともつと深い根據
があるのだ。
(筆者注釈ーーーこの詩の「どもり」という表現にひっかかる方がいるかもしれません。今日では「吃音」というべきかと。しかし「どもり」は決して差別用語ではない、むしろ積極的に使うべきだ、という議論もあるようです。もちろん永瀬清子には差別的意図などはなく、この詩が書かれた80年以上前の日本では普通に使われていたコトバでした)
自分の思うことをスラスラと筋道立ててコトバにできるような人は詩を書く必要はないのです。詩を書く人はみな簡単にはコトバにできないこと、自分のアタマの中には確かに存在しているけれど、それを月並みなコトバで表現しては自分がウソつきになってしまうようなとまどいに口をつぐんでしまうのです。
永瀬清子はそんな人たちを、いや、むしろそうであるからこそ、書きに書けよ、と励ますのです。
「流れるごとく書けよ」永瀬清子
詩をかく日本の女の人は皆よい。
報はれること少なくて
病氣や貧しさや家庭の不幸や
それぞれを背負つて
何の名譽もなく
何年も何年も詩をかいてゐる
美しいことを熱愛しながら
人目に立つ華やかさもなく
きらびやかな歌聲もなく
臺所の仕事にもせいだして
はげしすぎる野心ももたず
花を植ゑたり子供を叱つたり
そして何年も何年も詩をかいてゐる
先生もなく弟子もなく
殆ど世に讀んでくれる人さへなくて満足し
風の吹くやうなものだ
雀の啼くやうなものだ
しかし全く竹林にゐるやうなものだ。
あゝ腐葉土のない土地に
種まく日本の女詩人よ
自分自身が腐葉土になるしかない女詩人よ
なれよ立派な腐葉土に。
あらゆることを詩でおもひ
あらゆることを詩でおこなひ
一呼吸ごとに詩せよ。
日記をかくやうにたくさんの詩をかけよ
手紙をかくやうにたくさんの詩をかけよ
失へる日に歔欷の詩を
逢遇の日に雀躍の詩を
無爲の日に韻無き詩を
培かへる日に希望の詩を
戀人のためにわが髪の詩を
子供のためにほゝずりの詩を
兵士のためにマーチを
時々刻々に書き書けば
成りがたい彫心縷骨の一篇よりも
更に山があり谷があり
貴女の姿のまるみのみえる
逆説的の不思議はそこに
普段着のごとく書けよ
流れるごとく書けよ
まるでみどりの房なす樹々が
秋にたくさん葉をふらすやうに
とめどもなくふつてその根を埋めるやうに
たくさんの可能がその下にゆつくり眠るやうに
左川ちかなどはまさにこの詩で永瀬が言う「成りがたい彫心縷骨の一篇」を書くために命を削ったような人でしょうが、そんな天才だけに詩を書く理由があるわけではないと私は信じます。
幸いなことに世はインターネット社会です。左川ちかも山中富美子も莊原照子も容易に読むことができるようになりました。彼女たちの復権も今後進んでいくことでしょう。
詩の歴史の発掘と書き換えが進むと同時にこれからの詩の歴史の記述方法も変わっていくでしょう。
詩はネット上で書かれ、誰でもが読み、自分の意志で評価をつけ、素晴らしい作品は自ずと拡散していくものとなりました。なけなしのお金を捻出して名刺代わりに一冊詩集を作る、などということも意味のないことになるでしょう。
普段着のごとく、流れるごとく、詩を書き語ることのできる、そんな時代に生きられることを私はたいへん幸福に思うのです。
(文中の引用書籍はすべて「国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書」で読むことが出来ます)
『天の手袋』北園克衛 著 (春秋書房, 1933) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書 「若き女性詩人の場合」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242287/83
「左川ちかと(室樂)」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1242287/59
『左川ちか詩集』(昭森社, 1936) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1901761
『マルスの薔薇 : ろまん・ぽえじい』 荘原照子著 (昭森社, 1936)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257837
『詩学』(詩学社, 1957-12) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「莊原照子さんの思い出ー城田英子」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/6065154/9
『現代女流詩人集』(山雅房、永田助太郎・山田岩三郎 編、1940) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「純粹な貝殼」中村千尾
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1114022/147
『日付のない日記 : 中村千尾詩集』 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
中村千尾 著 (思潮社, 1965)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1361968
『詩へのいざない : 現代詩の理解と作法』江間章子 著 (柴田書店,、1957) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1336344
『日本未来派. (31)』(日本未来派, 1950-01) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 雑誌
「深尾須磨子氏へ--詩人への手紙」永瀬清子
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/7919039/22
『女性と文学ー自分一人の部屋』 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
ヴァーヂニア・ウルフ 著(青木書店, 1940)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1689622
『女詩人の手帖 : 永瀬清子随筆集』(日本文教出版, 1952) 国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「性」「抵抗」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1668002/20
『諸国の天女 : 詩集』永瀬清子著 (河出書房, 1940)国立国会図書館/図書館・個人送信限定 図書
「論理のどもり」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685840/60
「流れるごとく書けよ」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1685840/56