パス・スルー
ホロウ・シカエルボク

いつからか指先に付着していた錆色の凝固した血液は、なめてみると土にしか思えなかった、まだ数分しか経過していないのか、それとももう幾時間か経っているのか、いまはまるで判断することが出来なかった、空気は雨の後のように湿気を孕みながら上昇を続けていた、明るかったけれど、それがまだ早い時間のせいなのかそれとも室内の照明のせいなのか、やはりそれもまだ判断することが出来なかった、そもそもそれらの現実的な感覚は再びこの身体の中に戻って来るのだろうか?そんなことにすら確信が持てなかった、つまりその時点で、生きているとも死んでいるとも言えた、だけど、どこの誰がそんな確信を得ながら生きているだろう?誰だって同じだ、意識的なものも、無意識的なものも―仰向けになったまま、とりあえず右腕を高く上げてみようと思った、肩関節のあたりで意識が遮断されている気がした、ゆっくりと力を込めながら少しずつ動かしてみると次第に持ち上がるようにはなったけれど、他人の腕を持って動かしているみたいな感覚だった、なんの意味もないように思えてすぐに下ろした、穏やかな川面を緩やかに走る遊覧船のような風がどこかから忍び込んでいた、それは寝ぼけた頭に、すべての物事には一定のリズムがあるのだと静かに語り掛けているような気がした…人生は霧のようなものだと思うことがある、ここにこうしている以外に存在は感じられない、曖昧な、あるいは、確かな記憶がいくら背中に連なろうと、そこにはもう鼓動は宿っていないし血も流れてはいない、微妙に再構成されたいびつな過去をぶら下げながらもうどれだけ生きただろう?理由も、願望も、意地ももう存在しては居なかった、ただ、目の前五センチ程度をうろついている奇妙な予感のようなものに誘われて時を更新している、もちろん、感情の浮き沈みはある、だけどそれはやはり、時間が経てば偽物になってしまう、あらゆることはシンプルになった、でもそれを語ろうとするにはたくさんの言葉と表現が必要になる、そしてどれだけ時間や紙面を費やして語ってみたところでそれは語り尽くされることなど決してありはしないのだ、そんな行為にもしも終わりがあるとすれば、それは死のみだ、生命活動の終了がすべての終わりだ、そこから始まるもののことは、歩んできた過去と同じくらい関係のないことだ、すべては一瞬の点滅に過ぎないのだ、ぱっと灯りが点ったその瞬間に、どれだけのものを目にして、なにを拾ってなにを捨てるのか、そしてそれが自分にもたらすものはなんなのか、それを考え、感じ、塗り替えていくことがきっと、たったひとつ重要な行為なのだ、塗り替えることに制限はない、同じ色で塗り替えてみたっていい、それは塗り替える前と同じでは在り得ない、いや、もしかしたらそのほとんどは同じ色で塗り直され続けているのかもしれない、家屋の補修と同じように…いつのまにか肉体が感覚を取り戻しつつあるのに気付いた、上体を起こし、肩を何度か回し、首を左右に揺らせる、そうした行為は獣のころからずっと繰り返されている、獣と人間のどちらがそうした行為をより上手くこなせるのかという部分についてはまた別問題だ、犬だって猫だって肩は凝るらしい、すべてが久しぶりに火を入れたエンジンのようだった、なんだか間抜けな感じがした、生きるということにはムラが在り過ぎるのだ、どんな場面のどんな選択にしたって―でももしかしたら、それが一番本当の景色なのかもしれない、人の住んでいない土地ほど、猛烈な風が吹き荒れるようなものだ、真実を語るときにどれだけ言葉を並べ立てても意味など生まれない、短く語ってみたってそうだ、語ることなど生き続ける意味においてはささやかな事柄だ、どのみち語れることはあまりない、どれだけ言葉を知っていようと、どれだけの物語が内奥で順番待ちをしていようとだ、語ることが目的ではない、それによってなにを得ようとしているのかということを、しっかりと感じているかどうか、それだけだ―立ち上がって腰を伸ばした、窓の外は明るく晴れているが照明もまた煌々と照っていた、首を横に振ってそいつの息の根をとめ、服を着替えなければいけないとぼんやりと考える、夏に眠るとどういうわけかたくさんの夢を見る、でもそれを誰かに話そうとすると下手な詩のようなものになってしまう、特別になにかをしようという意思はなかった、けれど、人間は感じていることのすべてを自覚することは出来ない、洗面で鏡を覗き込んだとき、鏡像の中から身体になにかが飛び込んだ気がした、身支度を整えて部屋を出ると、玄関の扉にやたらと大げさな音がする鍵を掛けた、外は思っていたよりもずっと暑く、すれ違う連中のほとんどが殺意を持っていた、そしてあらゆる感覚はアスファルトに染み込み、派手な車が脇を擦り抜けて行った瞬間、ボンネットに反射した空に虹が隠れているような気がした…新しい靴を買おうと思った、時間はまだ腐るほどあるのだ。



自由詩 パス・スルー Copyright ホロウ・シカエルボク 2022-07-29 08:03:39
notebook Home