西脇詩の音楽性
藤原 実



倉橋由美子は「大脳の音楽 西脇詩集」(「毒薬としての文学」講談社文芸文庫)で、
「音楽と言っても朗唱して耳に快いなどということとは関係がなくて、西脇氏の詩の音楽は直接脳髄に響いて脳の回線を思いがけない具合に切ったりつないだりするらしく、脳髄がむず痒くなって笑いだしたくなる」
「詩が魂の感動の叫びであるといった俗説とは無縁の「大脳の音楽」がここにはある」

というように書いていて「脳の回線を思いがけない具合に切ったりつないだりするらしく、脳髄がむず痒くなって笑いだしたくなる」という表現がおもしろかったのですが、西脇順三郎といえばその詩学のカナメとして「遠いものを結びつける、あるいは近いものを引きはなす」ということがよく言われ、それは主に相反するものを連結して新しいイメージを作るということが強調され、西脇詩の音楽性という面は私などはあまり深くは考えてこなかったように思います。しかしイメージと言ってもコトバで表現されているわけですから、当然、音をともなっているわけであり、私たちのアタマのなかには映像とともにそれが喚起する音も響いているわけです。


ここは昔広尾ケ原
すすき真白く穂を出し
水車の隣りに茶屋があり
旅人のあんころ餅ころがす
この曼荼羅の里

     (西脇順三郎「旅人かえらず 165」)

「あんころ餅」と「曼荼羅」というイメージの重なりと同時にアタマのなかには<アンコロモチーコロガスーマンダラ>という変なつながりの音が鳴っています。

やつぱり脳髄は淋しい
実に進歩しない物品である
  
     (西脇順三郎「体裁のいゝ景色(人間時代の遺留品)」)

「やっぱり・・・淋しい」という音の連なりなら「・・・」の部分には「ヒトリハ」とか「ワカレハ」とかいう音が私たちのアタマにはかすかに響いてきますが、そうではなくて「ノーズイ」という思いがけない音が鳴るのです。脳髄が寂しがってカンシャクをおこしているようです。


西脇自身は、

「私の詩は朗読されると困る。それどころか声を出して読まれても困る。頭の中で読む音の世界をつくろうとしているからである。頭の中で考えたり感じたりする音調で詩を書いているのであるから。」「私の詩は意識の流れで書いている。かすかに水の流れる音の世界である。」(「脳髄の日記」)

というふうに説明しています。

片桐ユズルが「現代詩とコトバ」(『詩のことばと日常のことば』思潮社)という文章で西脇詩の言葉使いを



    こんな日にはあの梨色のタイをつけた
    生物学者こそ語るのは
    いそギンチャクや山葡萄の
    つれない物語だ。

西脇詩のミリョクはこんな「こそ」「のだ」「も」「だが」「ただ」「とは」「だけ」「のような」が文法家のイミより置きかえられて使われているためだ。われわれは日常のハナシではこんなことはしばしばだ。しかし書くときはそうしたら叱られる」
「多くの詩人たちはこれとは反対に,文法的には正確に先生の教えたとおり.そして比較はアッと言わすようなのを作ろうと.優等生の苦心をしている。」

というふうに書いているのをむかし読んで、劣等生のじぶんが優等生のマネをしても詩が書けるわけはないと反省したことがありました。


片桐ユズルは「西脇詩の構造」(『西脇順三郎全集別巻』筑摩書房)では、そんな西脇詩をジャズのような音楽的構造を持ったものと分析しています。

「パウンド、エリオットの詩は意識のながれである。西脇詩のレールも、意識のながれで、それにのっけるのは異質の要素を交互にのっけてればいい。そういうわけで、彼の詩は出来、不出来の差がない。散文もそうだ。
(中略)
彼の詩は、おなじ調子で、福原麟太郎は彼の散文をストラビンスキーの音楽みたいだといったが、えんえんとつづいてとくにクライマックスもなく、頁がなくなりました、ではさようなら、といった感じのおわり方など、もしかしたら日本におけるジャズ詩の伝統の第一歩をふみだしたものであったかもしれない。
意識のながれテクニックをつかったため、へたなニホン語で、非文法的、散文的で、つじつまがあわなくてもいいし、飛躍も自由自在、現在と過去、内部と外部が相互浸透できるという、しかもオートマチズムのようにかんぜんに野放しでない。しかしノンセンス・バースのように完全に意識のコントロールのもとにおかれた無機的なものでなく、無意識にかなりの信頼をおきながら、一方かなり読者をたのしませることもできるという、ひじょうにオーガニックなものである。」

ここに出てくる福原麟太郎は「西脇順三郎の英文学」(『西脇順三郎全集別巻』筑摩書房)で、

「彼の文章の書き方が自由自在であることは最初に記したとおりだが、彼の文章は、大たいパラグラフが短かく、かつパラグラフとパラグラフとの間に論理的連関が無いように見え、しかも、できるだけ乾燥した文体で書こうとしている。常套の言葉を使わない。使うとわざと使ったようで皮肉にひびく。そういう文体だから判りにくいが、それをある速度で読むと、漠然として意味が浮んで来、やがて全体を読むと、その全体で一種の交響楽を奏でている。彼はそういう行き方でものを解らせる。」

と書いていて、これは西脇の散文についての文章ですが、詩も同じでしょう。西脇は彼の詩を意味ではなくて、言葉が響き合う「音楽(交響曲)」としてわからせようとする。

逆に言えば 詩を音楽として捉えようとしない人には西脇詩は永遠にわからないということになる 。


そうすると北川透の「西脇順三郎ノート」(『詩と思想の自立 : 現代詩の歴史的自覚』思潮社)などは、


カルモジインの田舎は大理石の産地で
其処で私は夏をすごしたことがあった

ヒバリもいないし蛇も出ない
ただ青いスモモの薮から太陽が出て
またスモモの薮へ沈む
少年は小川でドルフィンを捉えて笑った
    
        (「太陽」)

(中略)大理石とか、ドルフィンとかカルモジインとかいうことばを、気にしなくて読めば、それは自我の消滅した時代、たとえば平安朝の時代の自然のように思えてくる。そういう意味でナショナルなものに対する思想的な否定性を貫いた反ナショナルな世界でもない。いわば、西脇の生きている時代のナショナルな感情から、できるだけの距離をおいたところで自立した世界だということができるだろう。」

北川は「ことばを、気にしなくて読めば」とわざわざ断っていますが、あくまでも言葉の意味無意味にこだわった読み方をする人たちへの配慮がみてとれる。そしてそういう気配りをする必要性を感じているということは北川自身にも同じこだわりがあるように思います。

しかし西脇自身はことばを大いに気にしていてこの「カルモジイン」というのも、『西脇順三郎全詩引喩集成』(新倉俊一著:筑摩書房)では、

「鎮静剤カルモチンから造った造語。イタリアの大理石の産地カラーラにかけたものか。」
   
と造語までして音を作っていることを解説している。

北川は、

「ぼくの過去は、むしろ西脇とは無縁なところにあった。西脇のことばが詩にむかうところは、ぼくにはことばが死滅するところのように思えていた。ぼくが西脇の詩についての印象を訂正して、そこに強固な詩の世界が自立していることを認め、しかも、まさにその点において、日本の現代詩が欠落させているものの巨大な象徴を見出すようになったのは最近のことである。」

と言っているように西脇詩をうけいれるためには相当の操作が必要だったようです。

富岡多恵子も当初西脇詩をわからず、

「西脇順三郎氏の詩を、ハタチぐらいではじめてよんだとき、わたしはとりつくしまもなくしょんぼりしていた。それが五年ぐらいたった或る日、突如としてわかる気になり、わたしはコーフンし、西脇順三郎の詩がわかるのはわたしだけなのではないか、とさえ思うほどのめちゃくちゃぶりであった。
もちろん何がどうわかったかわからないが、わからないが突如わかるということは、やはり不思議なことなので、わかるわからないの間にあった、あるぼんやりした時間や空間をわたしは眺めてすごした。」

といった経過をたどった結果、

「この詩人のコトバは音楽である。そしてまた、コトバの意味を散文の意味と詩の意味とで自在にあやつる手管であった。」(「近代の寓話」『西脇順三郎全集別巻』筑摩書房)

という結論に至った。しかし『詩よ歌よ、さようなら』(集英社文庫)という本を読むと冨岡はもともと

「わたしは、詩を書いている間、コトバの音楽をおさえつける作業をかなり意識的にしていた。
詩をコトバで書いて、活字にし、本にすることは、多かれ少なかれそういうことである。読むための詩、読まれるための詩というのは、必ずどこかでコトバの音楽に対決している。しかし、一方でたえずおさえつけたコトバの音楽の返り討ちにおびえているのである。」(「音と音楽」)

というひとであり、

「わたしは詩を書いている時、美しいことばを使おうと思ったことはなかったが、表現したいものを正確にあらわし、しかも最も的確なことばを使いたいとは思っていた。美しいことばというのは、はじめから机の上に並んでおかれているのではなく、正確に使われた時に美しくなる場合があるに過ぎないと思われる」(「詩のことば」)

とにかくコトバについてつねに考えているような態度のひとであり、しかもひじょうにマジメである。どのようなマジメさかというとふつうの人間なら気にもしないか気づいても見ないふりをするようなコトバとコトバのすきまもコトバにしなければ気がすまないようなマジメさのように思えるのです。
そして彼女は「わかるわからないの間にあった、あるぼんやりした時間や空間」もコトバで埋めつくさずにはいられなくなったのか、詩にさようならを言って小説家になってしまった。

彼女ほどではないにしろ、とにかく何かモノを書こう書きたいなどと思っている人間は、普通のひとがしゃべるコトバとコトバのすきまをさらにコトバで埋めつくそうとしがちである。しかしそうすると、コップに水をあふれるほど満たすと指で弾いても音がしなくなるように詩の場合はその音楽性がギセイになっていることに気づかない。

コトバに対する態度を比べると、ヘタな例えになりますが、小説家が深海魚としたら詩人はトビウオのようなものなのか、と思うのです。


最後に篠田一志が「人と文学」(『現代文学大系34 萩原朔太郎,三好達治,西脇順三郎集』筑摩書房)で、西脇詩の受容のためのこころがまえを次のように書いてくれているので紹介をしておきます。

「まったくの先入感なしに、詩人は読者に言葉、あるいはイメージだけを追い、そこに交響する音楽に耳をかたむけよ、とまず指示する。」
「一行はこのまま読み下せばよろしい。どんな色のバラが悲しみなのか、と一寸考えてみたくなるが、まあ、考えたところで仕様のないことだ。」
「前行とどういう関り合いがあるかと考えることはあまり意味があるまい。意味がないどころか、有害ですらありうる。」
「読みかえすとき、ぼくたちの眼前には、なにゆえか、それはしかとさだめがたいが、ともかくバラの花びらがゆれはじめるのである。
言いかえれば、いわゆる連想作用によるイメージの構成がここに行われているわけで、読者がおのれを空しうして、言葉、あるいはイメージを正確にたどってゆきさえすれば、そこに、おのずから、ある強烈な情緒が大波のように渦巻き、高まってくるのである」



<参考>
以下は「国立国会図書館/図書館・個人送信限定図書」で読むことができます。

西脇順三郎「旅人かえらず」「脳髄の日記」(『西脇順三郎全詩集』筑摩書房)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1360667
片桐ユズル「現代詩とコトバ」(『詩のことばと日常のことば』思潮社)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1671347/8
北川透「西脇順三郎論ノート」(『詩と思想の自立 : 現代詩の歴史的自覚 』思潮社)https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1361817/122 
篠田一志「人と文学」(『現代文学大系34 萩原朔太郎,三好達治,西脇順三郎集』筑摩書房)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1668640/233


2022/07/28


散文(批評随筆小説等) 西脇詩の音楽性 Copyright 藤原 実 2022-07-28 13:17:54
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