メモ
はるな
蝉が破裂しそうに鳴いている。ぐるりと囲むメタセコイアの枝のすべてから鳴き声が降り注ぐ、時々ふっとそれが止むと、夏の日ざしも相まって、ちょっと世界が終わったみたいになる。
その大きなニュースが報じられたとき、わたしは涼しい布のうえにいた。あの日わたしは一日中テレビをつけていて(でもそうするべきではなかったなと思う)、物事が少しずつ明らかになっていくのを、でもそれが本当かどうかわからないままで肥大していく情報を、そしてとめどなく生まれる尾鰭のような感慨を見ていた。
なにかよくわからないようなスピードで、死に意味と理由が求められ、値札がつけられ、切り分けられ、配布されていく。わたしはそれが気味悪く、かなしく、そんなことはしてはいけないのに、と思った。けれどもあれもこれも仕方のないことのようにも思えた。
死が、個人のものでなく、自分以外の何かに利用されようとするとき、生きることがそうならないと誰が言えるだろう。わたしの体が、わたしのものでなくなるときがそこまで来ているように感じたから、いけないと思ったのだ。わたしの悲しみがわたしのものでなくなろうとしている。
だから引き金をひいてはいけなかった。引き金を引かせてはいけなかった。
人を傷つけてはいけないという余地は、自分と他人の境界を曖昧にした瞬間に消えてなくなる。