雨の日の憂鬱
山人

 傷口に触れないこと、これは治癒するためには大切なことなのかもしれない。会話を発することで、何かが変わるとは思えず、私と妻は口を開くこともなかった。
 土曜の早朝、私は五時前に県境の無人駅に出向き、ストーブを着火させ、なにもすることもない、ただの留守番仕事に精を出し、朝六時過ぎに其処を出て一旦自宅に朝食を摂りに戻ったのである。
 酒を飲まなければ常に貝である父は、カリカリと音をたて沢庵と飯をさらいこんでいる。なにかを考えているのだろうが、アルコール飲料が脳内に廻らなければ口は閉ざされたままだ。
 母に線香をあげ、外の雪の除雪具合を眺めることが日課でもあったが、あれ以来除雪をしていないため、どれほど雪が解けたであろうかと毎日眺めるだけの行為にとどまっている。
 こんなつまらない日常と暗鬱な文章をここに晒すことは健全とは言えないのは承知の事であるが、どこかこの重苦しい感情を吐露するべきところがないと私はどうしようもなくなるのだ。
 ではどのような事柄が私や妻の心を痛めているかをここで話すことはやめておく。それはたがいの恥部をさらすようなことだからである。
 朝食はベーコンエッグにキャベツの千切りが添えてあるものをおかずにし、あとはラッキョウの酢漬けをおかずにした。ベーコンの脂身としなやかなキャベツの千切りと風味たかいダシ入りの醤油は食欲をそそった。いつまでも食卓に乗っているラッキョウの酢漬けも私しか食べる人もいないのだが、それでもその甘辛く且つトウガラシが塗してある味付けはなぜか不思議に私が求めてしまう味でもあった。いずれにしても不思議なことではある。人はどのような場面でも空腹を感じてしまう。すなわちそれは、人は常に生きようという本能が発生しているのであろう。それは私たちが人間であると同時に、色んな生物や植物と同じように生き続けることで何かを残そうとする本能なのかもしれない。
 歯を磨き投薬する。その薬が利いているのかどうかわからないが、今ではすでに投薬という行為がいかにも宗教的な行為でもあり、投薬を受ける者は誰もが洗脳されているということなのだ。四種類の錠剤を体内に収めることで一日の儀式を終了させ、どこかへ追い立てるのだ。
 無人駅に戻ると私は「明るい安村」が欲しくなった。裸でいるのは興ざめするが、あんな壊れかかった笑顔が見たいと思うのである。壊れるというのは語弊がある。破顔といった表現が正しいかも知れない。すべてを笑い飛ばすというようなそんな笑顔を見たいという気分になる。それほど雨は強く降るでもない、やるせない降りを提供していたのである。
 無人駅の除雪作業員室のベンチに靴下のままの足を載せ、私はまた森鴎外の「雁」の続きを読み始めたのである。現代の娯楽小説のような鋭い切れ味やスピーディーな話も展開もなく、百年以上も前の時代を楚々と語り続ける世界がある。明治の頃、私は如何していただろうかと考えれば、きっと未だ種にもなっていなかった頃であったであろう。その種ににもなっていなかった頃に私は確かに戻っているという事実がそこにある。本を読むということはそういうことなのだと不思議に感じた。
 県境のはざかいの無人駅の次は福島県であるが、雪解けが進み、雪崩の危険があるということで県境を越えない運転が続いていた。始発駅を出てここ県境駅で一時間半から二時間時をつぶし、折り返し始発駅に戻るというパターンを来月の初旬まで計画されているようだ。よって、観光や遊びで乗車する人が県境駅で一旦下車し、あたりを観察するという行為が目立っていた。
 我々のいる除雪作業員部屋とその通路には戸があり、固くカーテンが閉めてあり、不要の開閉を禁ずる注意書きが貼り付けてある。それにもかかわらず、老年夫婦は気にもせずがらりと開け、気がついて慌てて詫びを言い締めていくというケースが度々あった。それに対して何ら気になることではないが、ふらりと汽車に乗り、プチ旅行じみた行為をするという老夫婦の生活がうらやましくも思えたりもするのである。他愛もない言葉のやり取りをしながら、最後は同じ墓石の下に潜り込むための前戯のような感覚に思えてならない。干からびた皮膚や、毛髪を失った頭部、歯茎にはびこる雑菌と口臭、排泄だけしかできなくなった性器。そのように衰え、死への階段を下りつつある老夫婦のこの世とのカスガイがそこにあった。年をとるということは醜い、真からそう思う。しかし、それに逆らうことはできない。そのあきらめのブルースが聞こえている。老夫婦はまるで異星人のような言葉を話し、ふたたび暇な列車に乗り込んでいった。
 彼らが去り、まだ午後の交代時間まで二時間近くあった。次の交代は井出という人である。
 井出さんと私の交代の儀式では必ずジョークを言い合って交代するという暗黙のルールがある。なぜジョークを言い合わなければならないのかと問われれば、それは義務感なのだろうと思う。まったく仕事のない仕事を終えて、ふたたび仕事はないであろうと思われる人と交代するのは、いささか芸がない。つまり、芸をしない芸人はいらないということなのである。私たちは芸人ではないが、私と井出さんの中では必ずこれは一つの責務であり、私たちの芸をそれぞれが披露しあう重要なワンシーンなのである。
 県境の無人駅の勤務を交代し、外に出るとやはり雨は降っていた。やるせない雨である。
 雨は無下に降っていた。 


散文(批評随筆小説等) 雨の日の憂鬱 Copyright 山人 2022-03-20 07:40:48
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