以前、ニフティの「現代詩フォーラム」で詩の素材についての話題がでたことがあって、「テレビかなにかで見たことあるようなものではなくて、自身の体験を昇華させたものじゃなくてはダメだよ」みたいな意見がでて、他の参加者もおおむねそれに賛成していましたが、ぼくには不満でした。
以下は、その反論としてぼくが書いたものです。
『詩と体験』
「テレビで見たような」詩、がどうして悪いのかぜんぜん理解できない。逆にじっさい体験したことを、あえて「テレビで見たことのように」書きたい(あるいは、そうしか書けない)、ということだってあるのではないですか。その理由を問いつめてゆくことのなかにだって詩はあると思う。
詩人にとって、どんな体験だって“コトバ”というひとつのメディアを通過させずには、ひとに伝えることはできないわけですから、その意味ではテレビで見たことであろうが、週刊誌で拾い読みしたことであろうが、詩人がじっさいに体験したことであろうが、「素材」としてなんの優劣もない。
マクルーハン流に『メディアはメッセージである』というのは言いすぎとしても、ある体験なり、感情なりをコトバにするという行為の過程で詩人は世界とじぶんが存在することの意味をコトバに問いかける。詩人はコトバのなかにじぶんを投げ入れることによっていちど死ぬ。そしてコトバのなかで復活する。その行為が詩人のタマシイを時空を越えて、コトバというメディアを共有する多くのひとのタマシイとむすびつけるのではないだろうか?
詩人の個人的体験なんて、いかにそれが切実なものであろうが、ぼくはなんにも感動できないのです。
バーチャルリアリティーなんて、まさに「テレビで見たような」情景の積み重ねのような世界をいうんだろうけど、そこにリアリティーがあろうがなかろうが詩を求めるココロさえあれば詩を成立させることは可能なのではないでしょうか。
いま、高校生のころに買った『世界反戦詩集』(角川文庫/倉田 清訳)というのをひっぱりだしてきているのですが、
「1939年9月1日」(抄) W・H・オーデン
ぼくはただ、一つの声しか持っていない。
隠された嘘をあばく声だ。
平凡な官能的な人の
頭に巣くうロマンチックな嘘を、
手さぐりで空を探し求める
「権威」のビルディングの嘘を。
「国家」などというようなものはなく、
だれもただ一人ではいない。
飢餓は、市民にも警官にも
わけへだてなく訪れる。
ぼくらは愛しあわねばならない。さもなくば死だ。
夜のもと、護りもなくて、
ぼくらの世界は昏睡して横たわっている。
しかし、皮肉な光りの点が
至るところに散らばって、
「正しき者ら」がメッセージを交わすのを
照らしだす。
彼らのようにエロスと灰からできているぼく、
おなじ否定と絶望に
悩まされているこのぼくにできることなら、
見せてやりたい、
ある肯定の炎を。
(*訳注 1939年9月1日 この日、ドイツ軍はポーランドに侵入。その二日後、第二次大戦が勃発した。)
ぼくがこの詩に感動するのは、この詩にこめられたメッセージが感動的だからじゃない。
なにかある現実やメッセージを伝えるなら詩は小説などの散文にかなわないと思う。でも詩人はその選び取るコトバとその配置によって、アタマのなかに飛び散るイメージの閃光、じぶんの息づかいや脈拍までダイレクトに表現することができる。
そういう詩人との「直接」の出会いこそ詩のミリョクではないでしょうか。
1999/09/26 藤原 実